旅に出るので駅までトランクを運ぶ車を呼んだら、
「ハイヤー」がやって来て、
偶然みたいにぜいたくな時間を過ごした。
運転手さんもずっとハイヤーを担当しているかただそう。
道中よしなしごとを交わしているなか、
ハイヤーに乗るビジネスマンのなかには
車内で取引先のかたと話す慇懃な言葉と
運転手さんに対する横柄きわまりない言葉が
あまりにも違うひとがいて驚きますよ、と聞く。
そりゃあもうひどいもんなんだそうだ。
そんなこと、コントみたいじゃない?
しかも昭和30年代のサラリーマン喜劇のなかの
ダメな課長の話じゃない?
でも現実みたい。現代の。
嫌な思いを、運転手さんはずいぶんしてきたんだと思う。
「なんでですかねえ‥‥」
という口調は諦め半分でありました。
ヨーロッパではどうなんだろうなあ、と考えているうち
(ほかの場所はあんまり自分的にサンプルがないのでわからない)、
そういえば「民泊」についての
ひとびとの意識の差のことが頭に浮かんだ。
法律上のことではなく民意。
日本で、建物の入り口に
セキュリティがかかっている集合住宅では
住人による組合が猛反対するケースが見られるらしい。
(そういうことが多いとニュースで見たという程度です。)
知らない外国人が入れ替わり立ち替わり出入りしたら
私たちの安全が脅かされるにちがいないと。
いまのようにネットによる
マッチングサービスがはじまる前から
ぼくは民泊を使っているけれど、
ヨーロッパの集合住宅は
入り口にセキュリティがあるのが当たり前。
さらに二重三重の防御であることも多い。
この鍵は最初のドア、この鍵は階段に入るドア、
で、これが居室の鍵。そんな感じだ。
当然住人のみなさんから、
「その安全を脅かす存在」として
ぼくら旅人を見るような強烈な視線や
あからさまな嫌がらせを受けることはない。
どちらかというとウエルカム。
私たちの街にようこそ、という感じがする。
やあやあ、よく来てくれました。
旅人というのはそういうふうに迎えるものだと
思ってように感じる。
旅人であるぼくらも、ちゃんと挨拶をするだとか、
ゴミ出しをしっかりするとか、
深夜に騒がないだとか、
ほんのテンポラリーなかりそめの住人なりに、
けれどもまるでそこで生まれてそこで死ぬかのように
その土地の基本的なルールを守るという前提において、
快適にすごす努力をする。
ほんの僅かな「袖すりあうも」のご縁での同じ屋根の下だ。
ぼくがアパートに泊まりたがるのは、
自炊がしたいというだけでなく、
そういう環境に身を置くのがとても気分がいいからです。
「挨拶を子供にしないでください」という
集合住宅の住人の意見があるということが
一時話題になったけど、
東京でぼくが借りている集合住宅では住人の挨拶は当然。
エレベーターで二言三言話すのも日常だ。
もちろん子供たちも屈託なく話す。
だからニュースを聞くとほんとうに驚いてしまう。
そんな集合住宅ばかりになったら、
ぼくは東京を離れることを考えると思う。
ぼくの旅先は日本より治安がわるいと言われている街ばかり
(というか、どこだってそうですよね)だけれど、
民泊を利用する旅人もまた「安全を守る一員」。
そんな意識でいるように思うし、大げさに言うと、
「この不安定な世界を、せめて私たちは力を合わせて
楽しく暮らしましょう」というくらいの気持ちだ。
「そうじゃない人だっている」のはわかる。
世の中には想像もつかないようなおそろしいことを考える人もいる。
そういう人が民泊に紛れ込んで安全を脅かす可能性は
「あるのかないのか」と言われたら「そりゃあるでしょう」だ。
そこで話はハイヤーの運転手さんに戻るけれど、
「もしかしたらお金と安全が完全な対価だと思ってるんじゃ?」
という話になった。
安全という言葉をサービスに置き換えると
ハイヤーの話につながる。
でもそれに対して自分たちが払うお金は、
入場券とか参加料くらいのものは含まれていると思うけど
「さあ、金を払った以上、完全に俺が主だ。
俺を満足させてみな。お手並み拝見といくか」
ということではない。
そんな古くさいセリフを吐く人がいるのかというと
いないと思いますけど。
たとえばレストランで
お金を払っているんだからいくらでも横柄になっていいかというと、
いいわけがない。そんな客がいたら
まわりじゅうが不愉快になる。
でも「そういう人もいる」のが世の中。
これは別に日本に限ったことじゃない。
どこにだっている。
どこにだっているので、せめて自分は、
レストランに行くときは、その場を楽しくして、
お店もぼくらもいい時間を過ごすために努力をする。
口に合わない飯を食うのも経験である。
どの段階で失敗したのかなと(その場では言わないけど)
あとで考えればいいことだ。
事故なんて滅多にない。
まったくないかというと目の前の同僚のカレーうどんから
煮えたゴキブリが出てきたことがあるので、
ぼくにだって「ない」と断言はできないけれど、
50歳にしてそれなりの外食回数を経験してきて
事故と呼べる事故はその1件だ。
むしろレストランでもなんでも
店全体が音楽のセッションのようなもので、
みんなの前向きな努力の結果、
楽しい時間を過ごした経験はいくらでもある。
奇跡のような時間を過ごしたことだってある。
ちいさなレストラン中のお客さんが、
各グループにひとりかふたりずつ、
同席のものを知っていて、
「あれ、こんなところで!」
「ひさしぶり!」
「どうしたか心配していたんだよ」
なんて会話を交わしたこともある。
ほんとうに偶然居合わせたひとびとが
まるで彼を囲む会の参加者みたいだった。
そしてそのときはその翌日に、
その友人が事故で死んでしまった。
あまり軽々しく「奇跡」と言いたくないけれど、
あれは「奇跡のような」時間だったし、
なんらかのギフトだったんだろうと思う。
悲しい思い出だけれど、
あのときのあのレストランは、一体となっていた。
そういえば鮨屋のカウンターに偶然居合わせて
仲良くしゃべった横並びのメンバーが
「来年この店で同じ日に会いましょう」と予約をし、
毎年、そこで集まるちいさな会をしているのだけれど、
貸し切るのに席をうめる要員が足りないと呼んでもらい、
なぜかぼくもずっと参加している。
ごくごくちいさな鮨の会で店にも迷惑かもしれないが、
そんな縁をたのしむぼくらを
鮨屋の大将が快く引き受けてくれて、
ぼくらは「お店に払うお金」以上に、
全員でつくりあげたよろこびを共有している。
そしてうまい鮨も食べられる。
なんでも金で買えるわけじゃないんだよなあ。
お金って入場券でしかないんだよなあ。
旅をしていると自分の弱さと向き合いながら、
つくづくそう思います。
今回の旅は「出張」だけれど、
「お使い」感もありつつ、それを達成するため
現地の友人たちに総協力体制を依頼して、
事前の計画性と行き当たりばったりを
かけ算にしているものなので、
すごく「旅」感がつよいのです。
どういう旅かはまだナイショ。いずれまた。