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しばらくブログを放置してしまったので、
なにか載せておこうかなと思いました。
書いていない旅行の話もあるけれど、
本業じゃない原稿で「dancyu」に書いたものが
いくつかあるので紹介させてください。
タイトルは掲載時とは違うし、
ぼくのハードディスクにあるのは初稿で、
雑誌の原稿というのはその後の校正のやりとりで
いろいろ手を入れちゃうから、
あちこち違うのが載ったんだと思うけど、
これが一番搾りです。
ということでこの原稿。
東京特集にお店を選んで何か書く、というので選んだ
神宮前の「トラットリア・ラ・パタータ」についてです。
ぼくはこのエリアが好きで、
学生時代に住んだ渋谷区の神宮前3丁目、
線路を越えた北側の「新宿区内藤町」時代、
そのあと住んだ(戻ってきた)神宮前2丁目を入れると、
四半世紀もその界隈にいたことになります。
スーパーマーケットの選択肢が狭くて、
自炊にはほんとうに不便だったけれど
(品質を考えるとひと駅で行ける
伊勢丹新宿店のデパ地下が最高)、
それをおぎなってあまりある魅力が
この界隈にはありました。
ずっといようと思っていたのに、
なんで引っ越したんだと言われると、
それはもう縁と巡り合わせとしか言いようがない。
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銀座線の外苑前駅から青山熊野神社の脇を抜け、
原宿陸橋に出る。
外苑西通りに架かる橋の真ん中で立ち止まり、
建設中の国立競技場の方向を望むと、
左手眼下に「ラ・パタータ」が見える。
1980年代、地方都市の中学生だったぼくは、
雑誌の東京特集をぼろぼろになるまで読んだ。
そこで見た「キラー通りのラ・パタータ」は、
いつか行きたい憧れの店だった。
でもすぐには行けなかった。
大学に受かり、84年に上京したものの、
バイト暮らしの貧乏学生が行くような店ではなかったからだ。
はじめて行ったのは90年代前半のことである。
就職先の先輩が、仕事を手伝ったお礼にと
ご馳走をしてくれたのだ。
そこでぼくは生まれて初めてTボーンステーキを食べた。
世の中にこんなにうまいものがあるのかと感動し、
「ラ・パタータ」の料理は、
ぼくのイタリアンの「おいしさの基準」になった。
いま、50代になり、経済的にも余裕ができたことで、
「ラ・パタータ」にも臆せず自分の金で行けるようになった。
うんと久しぶりに行ったのに、
オーナーシェフである土屋孝一さんは
ぼくの顔を覚えていてくれた。
驚くのは、四半世紀も前のあの食事会のことを、
土屋さんは昨日のことのように覚えていることだ。
「8人でいらっしゃいましたよね。
1階で、テーブルを寄せて、
大きなTボーンを皆さんで分けてお召し上がりになられて。
デザートをお持ちしたら、拍手が起こりました」
と。
ぼくには、くりっとした目をまっすぐに向け、
ゆっくりと丁寧に話す土屋さんも、当時と同じ顔に見える。
一対一で話をすることができるようになってわかったのだが、
土屋さんは、自分からは、いっさい自慢めいたことや、
来歴や経験を話さない。
ぼくがあまりにもしつこく訊くので、
しょうがないなあという感じで教えてくれることはあるけれど、
「そんなことを知って、どうするんですか。
おいしければ、それでいいじゃないですか」
と言う。
「ぼくの料理は、イタリアンですらないかもしれません。
これだけ長くやっていたら、もう『土屋の料理』ですよ。
季節のおいしいものを、おいしく出す。それだけです」
何度か通って知ったのは、
ここの元気でおいしいサラダの野菜や果物の多くを
土屋さんが自宅の庭で栽培していること、
自宅での食事も土屋さんがつくり、
週に1度は孫たちもそろって、
イタリア人のように大人数でテーブルを囲むこと。
そしてぼくは、それが土屋さんが
いちばん大切にしていることなのだと思っている。
外苑西通りのことをキラー通りと呼ぶ人も減った。
これから、東京はますます変化し、店がたくさん生まれ、
また、消えて行くだろう。
願わくば「ラ・パタータ」が永遠であってほしいと思う。
けれども、そういうわけにもいかないのだろう。
だからぼくはなるべくここに通って、
しっかりと味をおぼえておくことにする。
ぼくのなかに、土屋さんの料理の遺伝子が
継承されたらいいなと思いながら。
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ぼくの好きな東京のイタリアンの系譜をたどると、
この「ラ・パタータ」につながることが多い。
あそこもそうだし、あそこもそうだ。
いま住んでいるところの近くにも、そんな店があります。
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しばらくブログを放置してしまったので、
なにか載せておこうかなと思いました。
書いていない旅行の話もあるけれど、
本業じゃない原稿で「dancyu」に書いたものが
いくつかあるので紹介させてください。
タイトルは掲載時とは違うし、
ぼくのハードディスクにあるのは初稿で、
雑誌の原稿というのはその後の校正のやりとりで
いろいろ手を入れちゃうから、
あちこち違うのが載ったんだと思うけど、
これが一番搾りです。
ということでこの原稿。
東京特集にお店を選んで何か書く、というので選んだ
神宮前の「トラットリア・ラ・パタータ」についてです。
ぼくはこのエリアが好きで、
学生時代に住んだ渋谷区の神宮前3丁目、
線路を越えた北側の「新宿区内藤町」時代、
そのあと住んだ(戻ってきた)神宮前2丁目を入れると、
四半世紀もその界隈にいたことになります。
スーパーマーケットの選択肢が狭くて、
自炊にはほんとうに不便だったけれど
(品質を考えるとひと駅で行ける
伊勢丹新宿店のデパ地下が最高)、
それをおぎなってあまりある魅力が
この界隈にはありました。
ずっといようと思っていたのに、
なんで引っ越したんだと言われると、
それはもう縁と巡り合わせとしか言いようがない。
──────────────────────────
銀座線の外苑前駅から青山熊野神社の脇を抜け、
原宿陸橋に出る。
外苑西通りに架かる橋の真ん中で立ち止まり、
建設中の国立競技場の方向を望むと、
左手眼下に「ラ・パタータ」が見える。
1980年代、地方都市の中学生だったぼくは、
雑誌の東京特集をぼろぼろになるまで読んだ。
そこで見た「キラー通りのラ・パタータ」は、
いつか行きたい憧れの店だった。
でもすぐには行けなかった。
大学に受かり、84年に上京したものの、
バイト暮らしの貧乏学生が行くような店ではなかったからだ。
はじめて行ったのは90年代前半のことである。
就職先の先輩が、仕事を手伝ったお礼にと
ご馳走をしてくれたのだ。
そこでぼくは生まれて初めてTボーンステーキを食べた。
世の中にこんなにうまいものがあるのかと感動し、
「ラ・パタータ」の料理は、
ぼくのイタリアンの「おいしさの基準」になった。
いま、50代になり、経済的にも余裕ができたことで、
「ラ・パタータ」にも臆せず自分の金で行けるようになった。
うんと久しぶりに行ったのに、
オーナーシェフである土屋孝一さんは
ぼくの顔を覚えていてくれた。
驚くのは、四半世紀も前のあの食事会のことを、
土屋さんは昨日のことのように覚えていることだ。
「8人でいらっしゃいましたよね。
1階で、テーブルを寄せて、
大きなTボーンを皆さんで分けてお召し上がりになられて。
デザートをお持ちしたら、拍手が起こりました」
と。
ぼくには、くりっとした目をまっすぐに向け、
ゆっくりと丁寧に話す土屋さんも、当時と同じ顔に見える。
一対一で話をすることができるようになってわかったのだが、
土屋さんは、自分からは、いっさい自慢めいたことや、
来歴や経験を話さない。
ぼくがあまりにもしつこく訊くので、
しょうがないなあという感じで教えてくれることはあるけれど、
「そんなことを知って、どうするんですか。
おいしければ、それでいいじゃないですか」
と言う。
「ぼくの料理は、イタリアンですらないかもしれません。
これだけ長くやっていたら、もう『土屋の料理』ですよ。
季節のおいしいものを、おいしく出す。それだけです」
何度か通って知ったのは、
ここの元気でおいしいサラダの野菜や果物の多くを
土屋さんが自宅の庭で栽培していること、
自宅での食事も土屋さんがつくり、
週に1度は孫たちもそろって、
イタリア人のように大人数でテーブルを囲むこと。
そしてぼくは、それが土屋さんが
いちばん大切にしていることなのだと思っている。
外苑西通りのことをキラー通りと呼ぶ人も減った。
これから、東京はますます変化し、店がたくさん生まれ、
また、消えて行くだろう。
願わくば「ラ・パタータ」が永遠であってほしいと思う。
けれども、そういうわけにもいかないのだろう。
だからぼくはなるべくここに通って、
しっかりと味をおぼえておくことにする。
ぼくのなかに、土屋さんの料理の遺伝子が
継承されたらいいなと思いながら。
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ぼくの好きな東京のイタリアンの系譜をたどると、
この「ラ・パタータ」につながることが多い。
あそこもそうだし、あそこもそうだ。
いま住んでいるところの近くにも、そんな店があります。
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