『ガープの世界』で主人公ガープが、妻に言うセリフがある。
ただしく記憶してはいないのだけれど、
おおよそこういうようなことだ。
「君といっしょに思春期を過ごしたかった。
胸がふくらんでいくのを見ていたかった」と。
恋愛に対しひどくロマンチックなガープ
(ま、たいていの男はそうである)に、
妻ヘレンは素っ気無く
「かわりにこれから私の胸がしぼんでいくのが見られるわ」
なんて言うんだけれども。
でも、ぼくもガープと同じようなことを思う。
大人になってから深くかかわるようになったひとに対し、
きみの人生を、もっと長く、むかしから、
見ていられたらよかったのにな、と。
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『根津甚八』を読んだ。
この9月、「役者としての」引退を表明した
根津甚八さんのことを書いた本だ。
著者は「根津仁香」さん。
根津さんの妻だ。
俳優としての最後の仕事が、この本『根津甚八』であると、
この本の発売当初、テレビの取材をうけた仁香さんは、
たしか、そんなふうに答えていた。
役者は表現がすべてであるならば
その人生を知りたいという欲望が
まっとうなものなのかはぼくにもよくわからない。
けれどもこれが
「俳優としての最後の仕事」だというのなら
それは、読まれるべき本のはずだとぼくは思う。
だから芝居を観にゆくように、
映画館に足をはこぶように、
ものがたりを味わうように、
ぼくはこの本と向き合うことにしたのでした。
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前書きから、第一章で語られるのは
「現在」に至る、ここ最近の、根津さんの姿である。
ふたりが出会い、引退を決意する年月のあいだに
起きたことと、さかのぼって病気のことが、
根津さんをいちばん近くで見てきた仁香さんから、
まっすぐに語られる。
仁香さんはだれかを責めたり、運命をのろったり、
そういうようなことはいっさい、言わない。
それは根津さんも同じのようだ。
たぶんこのふたりは、とてもよく似ている。
現実への対処のしかたに、
とても近い感覚をもっているのだと思う。
文章は、ただ、「起こったこと」を、
当事者の目で綴ってゆく。
それは、想像を絶するほどつらく、きびしく、
個人的な感想を言えば、かなしいものだが、
読者はまずはそこを受け入れるしかない。
この世界が成り立っている前提条件として。
そして仁香さんは、役者根津甚八を
もっとよく知りたいと強く思うようになる。
15歳下で、根津さんの出身地である「状況劇場」は
観たことがなかったというひとだ。
畑違いの人生を歩いてきた彼女が、
「役者根津甚八」のことを、
彼をよく知る人たちから、教わろうと決意する。
第2章からは、そんな冒険がはじまる。
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テレビの出世作『黄金の日々』の脚本家市川森一さん。
状況劇場の客のひとりだった映画監督の柳町光男さん。
状況劇場時代の仲間である麿赤兒さん、安保由夫さん。
映画デビュー作を撮った若松孝二さん。
黒沢映画のスクリプター野上照代さん。
バイク仲間の宇崎竜童さんや、冒険家風間深志さん。
ほかにもクマさん(篠原勝之さん)が出てきたり、
本人は語らなくとも四谷シモンさん、小林薫さんや
李麗仙さんら状況劇場の先輩後輩たちのことも、
もちろん出てくる。
そして、直接インタビュイイーとしては登場しない
本人・根津甚八さんのことばも、
家族ならではの特権(?)で、
たくさん、拾われている。
生い立ちのこと、学生時代のことは、
おそらく根津さんの口から、
長い生活のあいだに、仁香さんへと語られたことだと思う。
そしてそのなかで、向田邦子さん、
黒澤明さんの思い出も語られる。
そして──もちろん、状況劇場の主宰者であり、
恩師ともいえる、唐十郎さんのことも。
大勢の人に会い、話を聞くなかで、
仁香さんは唐十郎さんに会いたいと、
心から願うようになる。
しかし事実上「ケンカ別れ」をしたのが
唐さんと根津さんだということも知っている。
当時をよく知る人たちからは
「そりゃさ、こういうことなんだと思うよ」と、
すこしは気持ちが軽くなるアドバイスをもらいつつも、
なかなか会いにゆくことができない。
やっと決意をして、仁香さんが、唐さんに
「役者・根津甚八」のことを訊きにゆく──それが、
この本のクライマックスだ。
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唐さんにとって、根津甚八という男が、
どれだけのものだったのかということは、
その最終章の、最後のページのエピソードで、
すべてがわかる。
ここまでなんとなくふわふわしていたことが
最後の1行でぴたりと合う。
フィクションであったなら、
あまりに練り上げられたこの構成に舌を巻くところだが、
おそろしいことに、この話はただの事実なのだ。
読者は仁香さんとともに、息をのむ。
そんな体験をすることになる。
そのことについて仁香さんはなにも語らない。
なぜならそれはただの事実であり、
彼女がもとめていたものは、ほんとうにただそれだけだからだと思う。
そして、エピローグ、最後に根津さんからのメッセージ。
なんだろうね、運命とか、歯車とか、
そういうことってほんとうにあるのかもしれないと、
(ぼくはもちろんそう信じているのだが)
諦念とともに大きな希望をもってぼくは本をとじる。
仁香さんが、根津さんとともにつくってきた
この『根津甚八』という本のエンディングに
ほんとうにふさわしい終わり方だとぼくは思う。
そして現実のことを考える。
いまは「役者・根津甚八」はもうどこにもいないということだ。
ふつうなら、レクイエムということになるのだろうけれど、
この本は、もちろん違う。
なぜならこのものがたりには大きな救いがある。
それは、未完ということだ。
そう、このものがたりは、まだ終わっていないし、
終わらせようなんて、登場人物たちは誰も考えていない。
ここから何かがはじまるという決意でもあり、
そしてそのエンディングはたぶん、
想像するよりずっと先にしか、やってこない。
そう思うし、強く願っている。