フリードマン・エンドレ・エルネーは
1913年のブダペストでユダヤ系の家庭に生まれた。
そしてゲルタ・ポホイルは
1910年のドイツでユダヤ系ポーランド人の家庭に生まれている。
のちにゲルダ・タローという名で報道写真家となり、
26歳の若さで戦場に散った女性だ。
ふたりは1935年、それぞれが「あの時代」に
逃れて着いた地、パリで出会って恋に落ちた。
そして「ロバート・キャパ」が誕生する。
そもそも「ロバート・キャパ」というのは、
稼ぎをあげるべく、フリードマンとポホイルがでっちあげた
「才能あるアメリカ人の新人カメラマン」の名前である。
自分たちが撮った(どちらが撮ったかはもちろん不問)
報道写真を、さもエージェント的なふるまいで
「すごい写真家を見つけた!」と売り込んだわけだ。
志を同じくしたふたりの写真は
行動をともにしていることもありとてもよく似ているが、
比べてみると、力量の差は圧倒的で、
フリードマンの写真の技術はずば抜けたものだ。
写真的な写真。自由な写真。
いっぽうポホイルの写真は絵画的で、
ちょっと型にはまったところがあるように思う。
やがてキャパ名義はフリードマンだけが使うようになり、
ポホイルは「ゲルダ・タロー」と名乗って
(当時のヨーロッパにおいて、それはきっとかなり
無国籍な響きだったのだろうと思う)
それぞれの写真を撮るようになる。
最初のころは見分けがつきにくかった二人の写真だが、
それぞれが別々に戦場に行く頃になると
ずいぶんなちがいを見せるようになる。
フリードマンはどんな場面でも天性の写真家。
ポホイルは目撃者だ。
戦場での彼女の写真には「怖れ」が封じ込められている。
キャパの写真にはそれがない。
有名な「崩れ落ちる兵士」は、キャパ名義の作品だが、
じつは撮影者はゲルダ・タローだった、といわれている。
しかし、そもそもキャパは架空の人物なので、
それはどちらが撮影していようとかまわないと、
彼らは当時、考えていたはずだ。
そしてその瞬間は「足をすべらせて」崩れ落ちているだけで、
けっして戦場で頭を打ち抜かれて倒れる瞬間を
とらえたものではないということが
近年の研究では定説になっている。
ところがこれがはじめて『LIFE』誌に掲載されたときは
「スペイン内乱で頭を打ち抜かれる兵士」
というキャプションがついた。
そもそも「ロバート・キャパ」という架空の人物、
つまりフリードマンとポホイルが、
この写真にどんな説明をつけて売り込んだのかはわからない。
わからないけれども当時というのは、
「作品が掲載される際、写真家の意向にかかわらず、
むやみに写真をトリミングしたり、
不正確なキャプションをつけられたりすることが
頻繁にあった」という。
「これを防ぎ、写真家の権利と自由を守り、
主張することを目的」としたのが
フリードマンがキャパ名義でのちに立ち上げる
「マグナム・フォト」となるわけで、
となればあのキャプションにしても、
もしかしたら『LIFE』誌が扇情的につけた
でっちあげだったのかもしれないと思えてくる。
あるいは有名になるためにフリードマンとポホイルが
「そういうことにして売り込んだ」嘘だったのかもしれない。
『LIFE』にその写真が掲載される数日前、
ゲルダ・タローは戦場で戦車に轢かれて命を落としている。
ロバート・キャパの片割れは、
永遠にこの世から消え、写真とともに
キャパ名義をひとりで背負うことになるフリードマンだけが残った。
あの時代のヨーロッパには、
ほんとうにつらいことがたくさん起きたのだと思う。
その時代にあの土地でユダヤ人に生まれるということが
いったいどういうことだったのか、
ぼくにはちゃんと想像することができない。
ただ、フリードマンの人生において最大の悲劇であり、
そして、最大の転機は、やっぱり、
ポホイルの死だったのではないかと思う。
皮肉なことに『LIFE』の写真はたいへんな好評を博し、
“アメリカ人の新人報道写真家”ロバート・キャパの名前は
一躍有名になる。
フリードマンは知っている。
写っているのは「戦場で射殺される兵士」ではなく
「坂道を滑って転んだ兵士」であることを。
そしてそれは自分ではなく、
もともとは動体視力の必要なタイプの写真をとるのが
そんなに得意ではないはずのポホイル
(そして彼女のローライフレックス)が、
偶然にもその瞬間をきれいに切り取った
奇跡の一枚なのだということを。
そしてその写真を撮った恋人はこの世から去った。
フリードマンがほんとうに
「ロバート・キャパ」となったのは
そのときだったのではないか。そう思えてくる。
おれは一生、この「ロバート・キャパ」という
架空の人生を生きるのだ、と決意したのは
ポホイルの死をもってではないか。
あの写真の真実についてキャパ(フリードマン)が
その後いっさいなにも発言をしなかったのには、
そんな覚悟があるように思えてならないのだ。
なぜのちにキャパがあれほどたくさん戦場に足を運んだのか。
D-DAYで(プライベート・ライアンの最初のシーンだ)
兵士といっしょに最前線で上陸するというような無茶ができたのか。
あんなふうに「いつおさらばしてもかまわない」
というような覚悟を、なぜ持っていたのか、
そして(ほんとうに)アメリカで成功をおさめ
イングリッド・バーグマンを恋人にするような人生を手に入れても
結局戦場で死んでいくという道を選んだのか
(そんなことをしていたら、いつかそういうことになる)、
うっすらと理解できるような気がする。
彼が生きたのは、フリードマンという生身の人間の人生ではない。
もうすでに半分失われた架空の人物としての人生。
舞台での芝居のように進む人生。
ストーリーは悲劇で終わることが台本には書かれている人生。
それを彼はクールに、ダンディに、演じつづけていたのではないか。
横浜美術館で
「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」
という展覧会を観た。
すさまじい戦場の写真の迫力もさることながら、
キャパの写真は妙に乾いていて、クールとさえ言えるものだった。
そして、ものすごく巧い。ほんとうに巧い。やっぱり巧い。
若くして死んだゲルダ・タローの写真にある
ちょっと紋切り型な表現やアート寄りのムードが
いっそ「ほほえましい」と思えてくるほどだ。
彼女はフリードマンと別れてひとり向かった戦場では、
記録という以上には撮ることができなかった。
圧倒的にフリードマンとは力の差があった。残酷なほどに。
ポホイル死後のフリードマン(キャパ)はもうなにもかも
「かなわないよなあ」というレベルの写真家になってゆく。
彼が持っていたかもしれない空虚さも、
もちろん持ち合わせていたはずの写真への情熱も、
そこからは読み取れないほどにクールだ。
そこには生々しい戦争という現実があり、
「こういうものだ」と彼の目は語る。
そして彼は闘う両者のどちらにも加担しない。
敵を憎むという表現をしない。
いっぽうでイングリッド・バーグマンのポートレイトは
これ以上ないほどに官能的でうつくしく、
パブロ・ピカソにいたってはあのお茶目な好色ぶりが
みごとな構図のなかにおさまっている。
ブレッソンにひけをとらないどころか
もしかしたら一枚上手だったんじゃないかと思う。
これが撮れる写真家が、なぜ戦場に行く?
戦場で死ぬためだ、としか思えないではないか。
時間を巻き戻して、1944年、
パリ解放のフリードマンの写真の前で涙が出そうになった。
「キャパがパリに戻ってきた」ときの写真だ。
展覧会の混雑状況は、前がつかえ、
後ろから押されというような具合で
ゆっくり涙することはなかったのだが、
さすがのクールなキャパが、
いち青年のフリードマンに戻ったような気がしたのだ。
かつて恋人と出会い、暮らしたパリ。
解放のよろこびに湧くパリは、
キャパの写真のなかで
なんだかとてもセンチメンタルなものに思えた。
きっとそれはただの観る側のセンチメントなんだけれど。
* * *
もう1枚のことを追記のように。
交通事故に遭って入院中のヘミングウェイが
仰向けになってキャパを見ている写真にもやられた。
あんな目で見つめられたら(一瞬だったのかもしれないが)
射すくめられてしまうじゃないか。
あの大作家の「わかってる」と語るかのような眼差しはすごかった。
ともだちにしか見せない顔、ともだちにしか撮れない写真。
クールなキャパの写真のなかで、
強く「関係性」の写っている一枚だったように思う。
ほんと、すごいんだよなあ。