縁もゆかりもさっぱりない土地へ出かけたはずが、
そこで縁が生まれることがある。
たとえばパリがそうである。
縁があって(たとえば友人が住んでいて)出かけ、
さらなる縁がつながって何度も出かけることになる場所もある。
ぼくにとってはプラハやヘルシンキがそうだ。
縁がなくても生まれなくても大好きな気持ちがかわらず、
切ない片思いのように何度でも行きたい地もある。
シチリアやサンセバスティアン、リスボンなんかがそう。
自分じゃなく同行者の「多生の縁」のあるところに
出かけることもある。メルボルンやロンドンやニューヨークは、
たぶんそんな感じだと思う。
はじめて行った海外は香港だったけど、
考えてみたら明治生まれの祖母が唯一行った海外が香港で、
仕事に就いたら何十回と行くことになったのも香港で、
これはもう縁というよりつきまとわれているんじゃないかとすら思う。
面白いのは縁があるからその土地が好きというわけではなく、
それは、たまたま生まれた地元にたいして
ちょっと複雑な気持ちがずっと残るみたいに、
「好きとか嫌いとかじゃなくってさ」と言いたくなる感じに近い。
でもなぜだから付かず離れずの縁が続いたりする。
ミラノは2度目だけれど、
なんだかそんな感じである。
20代のとき海外旅行ガイドブックの
取材執筆編集をしていたのに、
こんなことを言うのはなんだけど、
1万マイル離れた土地でも、
宿から半径100m程度が行動範囲なのが
ぼくにとっては「いつもの感じ」だ。
100mというのは比喩だけど、当たらずも遠からず。
ほとんど「そこらへん」をうろうろして、
食材や日用品を買い、1週間、かりそめの暮らしをする。
もちろんパリだったら「アレ買いにあそこに行こう」と、
地下鉄に乗って隣町に行ったりもするから、
半径100mというわけでもないが
(そういう意味で、パリってけっこう東京的だと思う)、
ミラノはまだぜんぜんよくわかっていないので、
じっさいに半径100mくらいの範囲が楽しい。
しかも部屋にいるのが楽しい。
テレビも点けないしラジオも聴かないし、
たいして本を読むわけでもないのだが、
窓の外をクルマがブウブウと走っている音が
まったく東京とちがうという、それだけでもおもしろい。
いつまで経っても洗い終わらない食洗機だとか、
そもそも洗剤の匂いがきついなあとか、
トイレの水のダイナミックな流れ方だとか、
長く浴びていると水になっちゃうシャワーだとか、
時々停電して(すぐ復旧するんだけど)びくびくしているとか、
洗濯機がないならビデに湯を張って洗っちゃえとか(スミマセン)、
暮らすことそのものがクリエイティブだぜ!
──生意気に言うと、そんな気分である。
ようするにぼくの旅は引きこもり成分たっぷりだ。
滞在している地区は「ロレート」(Loreto)という。
ここの交差点は巨大なジャンクションであり、
中央駅にも近く、2本の地下鉄が交わるターミナルでもあり、
「とにかく交通の便がいい」場所である。
にぎやかな下町の風情のあるブエノス・アイレス通りがあるが、
観光客の姿はない。
だからたぶんガイドブックには載っていないんじゃないだろうか。
ちなみにロレート広場は近代イタリア史では
1944年のパルチザンと反ファシスト15人の大虐殺、
1945年にはムッソリーニなど社会共和国代表者の
遺体を見せしめにしたという有名な血なまぐさい場所である。
そういえばバスチーユもそうだけれど、
ヨーロッパの都市の広場には、暗い歴史を、
現代のエネルギーが覆い隠しているようなところがある。
観光客が来ないような場所に宿をとったのは、
これも、もう、ただの「縁」としか言いようがない。
地元民のYさんと話していたら、
「イタリア人の地元感覚は半径100mくらいなんですよ」という。
そこですべての生活が完結するように、
小さく町ができているのだと。
わざわざ隣町まで行って肉や野菜を買うことはしないし、
ロレートの住人にとって、同じミラノでも、
モンテナポレオーネ通りは地元ではないのだ。
イタリアは都市国家で、ひとつの街が、
外国のひとつの国のようなところがあると聞いた。
食文化も考え方も言葉もかわるのだそうだ。
その超・縮小版が「半径100mの地元感覚」なのだろう。
ニンゲンの地元感覚の同心円がつながって、
都市ができ、それが集まって国ができている。
ロレートにはEATALY(巨大な食のデパート)や
PECK(超高級食材店)にあるような、
とんでもない食材はないかもしれないけれど、
いい八百屋やナイスなデリカテッセンやおいしいパン屋、
クラシックなジェラート屋もシチリアのグラニータ屋も、
出来立てを供するチーズ屋も、
大型スーパーや深夜営業のちいさなスーパーもある。
高級でもないしブランドでもないけれど、探せば、
ていねいにつくられた農産品やお酒が揃う。
ぼくは「それでじゅうぶんだよね」と思う。
それがたぶん(かりそめの住人の)地元感覚なのだと思っている。