別れはあっさりしているほうがいい。
いつものように忙しいままで、
「またね!」と手を振って、
まるで明日も会えるかのように別れるのがいい。
わかっちゃいるんだけど。
友人(ちょっと年上の女性)のMさんが
東京を離れることになった。
足腰を弱らせたままひとりで暮らすお父上との同居を決め、
本州の西の端にある故郷に戻ることになったのだ。
都心の部屋を引き払い(帰郷の日まで友人宅に滞在)、
31年勤めた出版社を退職した日、
おいしい店があつまっている
大人の街のにぎやかな割烹でごはんを食べた。
はじめて行った店だったけれど、
料理人のふたりも、お運びのお姉さんも、
ずっとにこにこして機嫌のいい店だった。
おいしい魚を食べて、珍味をつつき、
日本酒をたくさん飲んだ。
Mさんはいつ会ってもたのしい人で、いつも笑顔で、
おかあさんじゃないんだけれど、
おかあさんぽい包容力のある人だ。
ふだんそんなにしょっちゅう
会っていたわけでもないけれど、
なにかあると「いつでも会える」距離感が絶妙で、
よくコンサートやイベントに一緒に行く仲だ。
演劇にも音楽にも造詣が深く、
批評の目はとてもフラットで、的確。
そういうともだちが近くにいるというのは、
ぼくにとってとてもだいじなことなんだと思う。
いろいろ相談もしたし、差し出がましくない表現で
ちょっとした人生の水先案内をしてくれるような、
そういう先輩でもある。
離職も帰郷もずいぶん長く考えてのことらしく、
本人はいたってサッパリしており、
平気で世界のあちこちへ出かけていく
いつもの行動力はそのままで、
東京ベースが故郷ベースになるだけのことで、
気分は何も変わらないのかもしれない。
でも、旅立つ旅人を見送る気分になってしまっているぼくは
どうにもウェット。
「ああ、Mさん、東京からいなくなっちゃうんだ」
と思うと、なんともせつない気分なのだった。
これが「パリに移住することになった」とか
「NYに行くことになった」とかだったら
こんなふうに思わないのかもしれない。
あるいは「南太平洋のなんとか島の
ホテルに勤務するから」とかね。
でも、故郷に帰る、お父上とふたりで暮らす、
という決意が、自分の未来の姿
──それを選ぶかどうかは別だけれど──と重なるようで、
そのことがせつないのかもしれない。
東京でしかできない仕事をしていると思っているからかなあ。
あるいはぼくの故郷の静岡は東京から実際の距離が近いので
(新幹線に乗っちゃえば1時間)、
決別したつもりだって、半分くらいありつつも、
なにかあったらあったで
まあなんとかなるんじゃないかな? というふうに、
ちょっと甘く見ているところもある。
(まあ、つまり、甘えている。)
このごろ思うのは「心の距離」のことだ。
旅の仲間たちと冗談のように言うのは
「心の距離は、○○よりパリのほうが近いから!」
みたいなこと。
○○には、日本の、あまり自分に馴染のない都市名が入る。
もちろん冗談なんだけれど、
旅をして、好きになった街は、
心の距離がうんと近くなるという意味で、
ちょっとほんとうのところがある。
ぼくにとってはサンセバスティアンやバイヨンヌは、
いま、そうとうに、心の距離が近い。
むかしあんなに近いと思っていたアメリカの都市は
どんどん心が離れていき、
何度も訪れたパリやプラハ、
ヘルシンキになると「すぐそこ」な気分だ。
熱海くらいの「えいやっ」な決意で行けそうな気がする。
品川駅から一本な気がする。
本州の西の端は、ぼくにとって遠い街なのだけれど、
Mさんにとって東京は、うんと近い街のようだから、
へっちゃらなのかもしれない。
「じゃあさ、半々にすれば? 東京に事務所持ってさ」
なんて軽口をたたいてみるけれど、
地方に暮らし東京でそれをするには
そうとうな「仕事」と「経済」が必要。
このあたりも自分に返ってくる問いかけなんだよな。
せつない気分のままではいかん!
ので、ひとつ約束をしました。
ちかいうちに(来年にでも)海外でアパートを借りて
自炊の旅をしようよと。
(そういえば一緒に旅をしたことはない。)
そしてその旅先はやっぱりパリだと思うな。
ビオの野菜たっぷり買って、
おいしい肉をキロ単位で買おう。
ちょっといいレストランを予約して
がんばってオシャレして行きましょう。
やっぱり季節がいいときが、いいよね。
帰りの地下鉄で、また明日会うようにお別れ。
またねー。
まあ故郷に帰るのも「旅」かもしれないものね。
Mさん、よい旅を!