ものすごく大雑把な言い方ですが、
日本の家庭料理はすべて和食なんじゃないだろうか。
さいきん、工房ものや作家ものの和食器を使ってみて、
そう思うようになりました。
‥‥あ、厳密に「和食器」ってわけでもないのかな。
日本の窯で焼かれた土ものの食器なので、
デザインは洋風だったりすることもあるんですが、
そのあたりも含めて「和食器」とここでは呼ぶことにします。
で。オムレツひとつでも、洋食器より和食器のほうが
箸をのばしたときにしっくりくる。
肉を焼いて盛りつけるのに
コンランショップのロイヤル・ドルトンよりも
土楽の灰釉折縁皿のほうが決まる。
そんなの好きずきでしょ、という話もあるけど、
うーん、ぼくは見た目は洋食器が好きなんです。
そして和食器が特別好きってわけじゃない。
むしろいままでは苦手だったかもしれない。
でも、「しっくりくる」。
似た感覚は、初めてちゃんとした浴衣を羽織って
きっちり帯を締めてみたら
「‥‥似合うじゃん」と思ったときの衝撃かなあ。
「にっぽんじんだからねえ」と言われたけど、
料理も、そういうことなんじゃないだろうか。
暮らしはとりたてて和風ではないと思っていたんだけど、
それでもやっぱり、作り手と使い手双方の、
生活への溶け込み方が違うのかな。
たとえライヨールのナイフを使おうと
クリストフルのフォークを使おうと、
バカラのクリスタルにワインを注ごうと、
(‥‥見栄をはりました、そんな日常じゃありません)
日々の食事は「おかずでごはんを食べる」スタイルなわけで、
つまり糠漬と佃煮も並べて、飯碗で銀シャリです。
あ、ラッキョと佃煮もあった。納豆納豆。海苔は?
生卵、あたらしいのあるよ。
そう、「生卵」を素材ではなく
料理の一品たらしめるためには和食器が必要。
洋食器で生卵ってなんか「料理前」みたいなんだもの。
いままで西洋料理を洋食器に盛るのって、
「ままごと」だったのかもしれないなあと思う。
完璧になんかできないしね。
完璧なコスプレ、というものはないように。
で。
和食器が増え始めてから、
洋食器を使う機会がちょっと減っちゃった。
和食器お試し期間なのかもしれないんだけど、
たとえば「コーヒー淹れよう」と思うでしょ。
淹れるでしょ。何に注ぐかと迷うでしょ。
染付の蕎麦猪口を選んじゃうんですよ。
理由は明確で、持ちやすいということ
(いわゆるコーヒーカップは持ちにくい。
手で直接熱さがわかるほうがいい)と、
飲み口がしっくりくるということ、
つまり、おいしいと感じるということ、
そして、すごく洗いやすいんだよなあ。
ソーサー要らないぶん、手間が省けるしね。
パスタ皿はまだ洋食器だけど、
そのうち「これだ!」っていうものににめぐりあったら
取って代わるかもしれません。
土ものの平皿に金属のフォークをつきたてる気はしないので、
取って代わる予感があるのは三谷龍二さんの木のパスタ皿です。
持ってないですが。ほしい。
三谷さんはパスタ用の木のフォークもつくってるはず。
‥‥ほしい。
とはいっても、洋食器をわが家から排斥しようというわけじゃないです。
たとえばフィンランドで買ってきたアラビアのヴィンテージは
これって和食器なんじゃないのというくらい、すんなり溶け込んでます。
(銘々皿として使ってます。)
不思議だなあ。
あの国のメンタリティとクリエイティブは、
やっぱりなにか、ぼくらに近いんだと思う。
と、そんなことを考えてていたら
けさ、飯碗を割っちゃいました。
テーブルの高さからカーペットの床に落として、
ぱかんとふたつになっちゃった。
土ものは、弱いな。
無念。
でも、ま、新しいお気に入りを探しに行く
楽しみができたと思うことにしよう。