久しぶりに服を買った。
この数シーズン買い控えていたのだ。
いろいろと物入りだという経済的な理由ゆえである。
だから春夏・秋冬にパリでコレクションを発表する
JUNYA WATANABE MANを追いかけるのを控えていた。
飽きたわけでも嫌いになったわけでもなく、
「大好きなの。でもね、いまは距離を置きましょう」という、
なんともムニャムニャムニャ……な判断です。
そりゃ悔しいけど、事情は事情である。仕方ない。
人生にはそういうことがしょっちゅうあるので、
べつにどうってことはない。
着る服はあるし。
そう、着る服はあるのだ。
ファストファッションがあるから、という意味ではない。
ぼくはこと表面に出るものをファストファッションで
済ませたくないと考えている。
肌着だって避けたい。
「質はあんがいいいですよ」
「わからないくらいオシャレになりましたよ」
ということではない。知っている。見に行くし。
ただ、自分は着ない。
じゃあどうしているのかというと、
ぼくは毎日ほとんど、相変わらず
COMME des GARÇONSの服を着ている。
JUNYA WATANABE MANもHOMMEも、
たくさんあるのだ。買い溜めたのが。着古したのが。
ああ捨てずにおいてよかった。
いまや世の中に
追いかけなければ恥ずかしい流行はないし、
そもそもあそこは流行に左右されるような人が
好きなブランドではなく、
どちらかというと流行に対する鎧のような役割をしている。
デザインが好き、趣味があう、という以上に
ぼくも「その意味」で選んでいる部分がある。
それにあそこの服はだいたいがいつも独特なので、
時代がずれていようが、
いま、組み合わせていて飽きないしちっともおかしくない。
じっさいぼくが着ているなかには
十数年前のものがあったりする。
距離を置こうと決めたふたりは
そのうち別れてしまうと決まっているのだが、
いまのところ「戻ってくるからね」と言いながら、
やっぱり買ってはいない。
見に行くと買っちゃうから店もスルー。
これはこれで胸が痛まないわけではない。
仲良しの店員さんの顔を思い出して、
どうしているかなあと思う。
でも生活圏内にショップがないので助かる。
バスで前を通るときは営業時間外だし、
銀座の店は1本筋をちがう道を通ることにしている。
前を通ると入っちゃうからね。
服を買っていないと言いつつ、
「白いシャツをめぐる旅。」というコンテンツで
メンズのフィットなシャツになかなか詳しくなって、
いろいろ縁ができたので、
ルイジ・ボレッリのシャツを誂えたりは、した。
1枚のシャツとして考えたら
COMME des GARÇONSよりずっと高いのだから
買い控えもへったくれもないもんだが、
まあいつもの買い物はシャツ1枚で済まなかったので、
仕事にも役に立つことだし、と誂えてみた。
それでちょっと服に対する考え方が変わった。
そうかなるほど「フィット」ってこういうことか、
と思ったのだ。
洋服とは動く肉体を包む布である、という
あたりまえのところで感心してしまった。
「オシャレはガマン」みたいなところで、
服自体がアイデンティティであると
ふんばっていた自分のあり方とはまったく違う。
そうか、COMME des GARÇONSは
肉体抜きでも存在できる洋服だが、
肉体がないと成立しないのがボレッリなのだなあ。
さて、「久しぶりに買った」服というのは
MITTANという若い男子がやっているブランドです。
担当しているコンテンツで
谷由起子さんの紹介する
ラオスのレンテン族の布というのがあり、
その反物を展示販売したんだけれど、
それをシャツに仕立ててくれるのが
MITTANさんだった。
均一ではない手紡の糸を手織りした
ラオスのレンテン族の布は
現地の人が服に仕立てるときはとうぜん手縫いで
それも平織りの「目」に針を通すというていねいさ。
縫い糸と織り布が一体化するので、
着た時にそこで「つっぱる」「ひきつれる」ことがなく
まるで1枚の布をまとっているような心地よさだという。
逆に言うと最新の技術とは相性がわるく、
化繊の糸でミシン縫いなんてできない。
だから「日本で仕立てて服にする」のは
なかなか難儀なことなんだけれど
それをMITTANさんはやってのける。
もともと民族衣裳に造詣が深く、
自社製品もけっこう難しい布を使っていて、
腕のいい職人さんをじょうずに組織しているからこそ
引き受けることができた仕事だという。
今回買ったのはラオスの布を使ったものではなく、
MITTANさんのオリジナルのものである。
彼らは「現代の民族服」を提案していて
デザインは、「和」成分の濃いアジア。
つり下がっていると、てろんとした布に見える。
メンズとレディスの区別はなく
サイズでグレーディングしている。
「綿入れ半纏のイメージで作られた一重仕立てのコート」とか
「もんぺみたいな形のパンツ」とか、
ぼくは最初、言葉というか頭で
ちょっと「じぶんとは縁がないなあ」と思っていた。
素材もいいしゆったりしているから
きっと着心地はいいんだろうけれど、
「おじさんと呼ばれる年齢になって、
作務衣着るようになっちゃダメだよな」という意味で、
まだまだ「和」や「アジア」の服を着るのに
抵抗があったのだ。
でもMITTANさんのモノづくりの姿勢については
近くで見ていてほんとうにいいなと思った。
それで、こういう服って似合うのかな?
と、試着をしてみたわけです。
これが……似合うんだ。
半纏コートはボタンもベルトもないので「羽織る」んだが、
肩で着るコートではなく
体全体で着るというイメージだ。
骨で着る「洋服」とは違い、
肉体で着るところは、
イタリアのシャツに通じる部分もあるのだが、
イタリアならばもっと古代の
ローマ時代のトガのようなことなのかも。
(あれはたしか一枚布ですね。)
そして、お客さんが試着しているのを見ると、
似合いかたが人それぞれなのも面白い。
服が、布であるという以上の主張をあまりしない。
「その人そのもの」でしかない……ということは、
人と服が一体化してアイデンティティとなる服ってこと?
そういえば海外それもヨーロッパに行く時に、
なぜだかちょっと和のテイストの服を
持っていくことがある。
何年か前のJUNYA MANで出した和柄シリーズで、
かなりアヴァンギャルドなスーツの裏地が和柄になっていて
思い切って裏返しに着ると面白い服はずいぶん活躍した。
それは「これはおれたちのほうが似合うだろう」と
ヨーロッパ人を前にちゃんと思える服だったので
夜遊びに行くとか、いいレストランに行くときに
それを着ていると安心したものだ。
そうか、やっぱり鎧か……。
雑に言うけど白人の着る洋服と
われわれの着る洋服を比べたら
そりゃ白人のほうが似合う。
「日本人は洋服が似合わない」と、
伊丹十三さんは言ったけれど、
そんなことはない……と思いつつ、
全面的に否定もできないように思う。
現代生活ことに都市生活において洋服は便利だし
なによりも好きだし着ていたい。
なんでもない海外観光旅行で
和装をしてまで主張をしたいわけでもない。
そういう前提のなかでスーツの裏が和柄というのは
「こちらが本家」というささやかなアイデンティティを
持たせてくれたんだろう。
で、その気持ちを起点にすっと線を引いてみたら、
延長線上にMITTANの服が見えたわけである。
もうひとつの起点はボレッリ。肉体にまとう布である。
で、買った。
コートとパンツ、セットアップじゃないけど紺で共布。
コートはこういう形、
パンツはこういう形である。
着ると着物には見えないが、平面にすると着物的ではある。
強いて言えばヨウジヤマモト的かもしれない。
でもこれは、こんどの旅行(スペインに行きます)に
着て行くと、けっこう自分らしくいられるんじゃないか?
と思っていたりもする。
ちなみに「和」「アジア」ではあるけれど、
ぼくが着てみるとあんまりそうは見えないです。
でも外国の人には「和」「アジア」に見えるのかもしれない。
でもまあ、何を着てもおかしな人、
という感じではあるので、いいんだけど。
肉体抜きでも存在できる服と
肉体がないと成立しない布の間で
ぼくはいま太った幽霊のように揺れている。