よしなしごとを書きます。
なかなか厳しいトラブルがあり、
いっぽうでたいへんうれしい報せもあり、の一週間。
「ああ、禍福はあざなえる縄の‥‥」
と知った口をきこうとして思ったけど、それは
禍というほどのことはなく、
福というほどのことでもないのだろう。
それは日々のちょっとした浮き沈み。
人生につきものの「例のやつ」である。
とうちゃんが将棋に負けて機嫌が悪いとか、
おばあちゃんがなぜかお小遣いをくれるとか、
こども時代のそんなようなことと似ているのかもしれない。
きのうのアレはなんだったんだろ?
‥‥まあいいや、みたいな。
そして朝が来ればいろんなことがもとに戻ってる。
ストレス耐性はかなり高いほうだと思っているが、
このところ夜中に不安で飛び起きちゃって、
「ああこのままじゃいかんどうしようどうしよう」と
軽くパニックになることがあった。
このパニックの感じは、幼少期に悪夢を見た時に似ている。
「漂流教室」の世界にひとり取り残されたような
ビジュアルのモノクロームの夢のなかで、
生きることに絶望しながら死ぬこともできない、
無間地獄を味わっているような感じだった。
でも無間地獄というのがどういうものか知らない。
ただ以前ちょっと流行った「五億年ボタン」のことを、
熱があるときに考えてしまい、
ほんとにおかしくなりそうになったことがある、
あの感じじゃないかと思う。
あれを冷静にわが事として考えられるひとは、強い。
と思って「無間地獄」を調べたら、
そんなもんじゃなかったですけれど。
こういうこともまた、朝が来ればすっかりもとに戻ってる。
たぶん、そういうときはただ体調がわるいのだ。
単純な話だ。
ストレスが原因かどうかは知らない。
でもたとえば熱があったりして、それも「悪寒」ではなく、
こもっている系の熱があるときだ。
そうすると心まで閉じこめられているような
気持ちになるのだ。
心を身体の外に出して風に当てたくなり、
つまりは肉体を壊して取り出したくなる。
咽喉にひっかかっている僅かな痰ですら、
苛々させ、気をおかしくさせる。
「ああこうして人は自死をえらぶのだ」と、
その直前まで行くような気持ちになるわけだが、
どこかでそんなふうに冷静に分析しているわけで、
ほんとうに死ぬ人は、もっともっと先まで行くのだろう。
たぶんその距離は、うんと遠い。
ぼくは思い込んでいるだけだ。
まくらもとの灯を点けて、
ベッドの上に腰掛けて2分くらいすると、
「あ、熱あるオレ?」と気づく。
足が異様に火照っているのがわかる。
汗びっしょりなのでパジャマを脱いで、
あたらしいタオルで身体を拭き、
シッカロールをはたいてTシャツに着替え、
まくらカバーのタオルを替えて、
なんなら汗をすったシーツの上にバスタオルを敷いてから、
エアコンの除湿をきかせて横になる。
やがて足が冷えるころにはすっかり落ち着いてくる。
そうして朝が来ればなにもかももとに戻ってる。
そんなふうに疲れていると、
「白いごはん」が食べたくなる。
ふだんランチ以外に米はほとんど食べないのだが、
いままさに土鍋で3合の米を炊いている。
夜中には食べませんよ、朝食べる用ですよ。
明日がたのしみだ。
そういうふうに眠りにつけるのは幸福なことだと思う。
関係ない話ですが「ムー」「ムー一族」が好きで、
あれは自分の一部をつくっているものだと思う。
ちょうど中学生のときで、水曜日の塾が終わるのが9時。
その時間に始まるあの番組を1秒でもはやく見たいので、
自転車を立ち漕ぎしてかっとばして帰ったものだった。
同じ方向に家がある親友(ブーツ)にまで
つきあわせて急いで帰ったが、
彼はそこまでの思い込みはなかったんじゃないか。
でもぼくにはあのテレビドラマのなかに、
じぶんの好きなものぜんぶが詰まっているように思えた。
あとにもさきにもそんなドラマはない。
樹木希林さんが亡くなって、
Amazonの「あとで買う」に入れていた
DVDのボックスセットを一気に買った。
でもたぶんすぐには見ない。
でも、いつでも見られると思うと、とても嬉しい。
見ていないDVDと読んでいない本の山は、
ぼくを明日へと連れていってくれる。
画像はもとプロの和菓子職人だった父の栗蒸羊羹。
母によれば、やわらかすぎて、栗はかたく、失敗だそう。
腕が落ちた! と言われても84歳だからなあ。
厳しいな母。
(けど食べてみて言わんとすることはわかった。)