「ねえ、今何時だと思う?」
と訊かれて、最初ちょっと意味がわからなかった。
デザートを食べ終え、エスプレッソを飲みながらのことです。
そして自分の答えがあまりに外れていたのに驚いたのでした。
店に入ったのが午後1時半。
そこからたっぷりのランチのコース料理を食べたんだけど、
感覚的には「あっという間」。
だって、出てきた料理はすぐに平らげたし、
次の料理を待って退屈したおぼえもない!
間髪入れず次から次へと運ばれてきたから、
ロスタイムはないはずだよなあ。
そして体感的には1時間くらい。
でも1時間ってことはないか。
1時間半くらいはかけたと思う!
ということは時刻は今、3時かな? どう?
「残念でした。正解は、4時でした!」
‥‥2時間半も食べてたってことー?!
ここは「ARZAK」(アルサック)というレストラン。
ずいぶん前にT嬢が予約してくれたのです。
今回の旅行も食材を買ってきて自分でつくるのが基本。
レストランは、現地でふらっと「行ってみる?」という程度なのが
これまでのパターンだったんだけれど、
せっかく美食のバスクなのだから、
思い切っていいレストランに行きましょうよと
T嬢の提案があって、ビルバオで1軒、
サンセバスティアン/ドノスティアで1軒、
行ってみることに。
そしてその2軒目が、この「ARZAK」でした。
「ARZAK」は創業120年になる家族経営のレストラン。
現当主のファン・マリ・アルサック氏が3代目、
その娘であるエレン・アルサックさんが現在の料理長。
まだファン・マリ父さんも現役なので、
父娘のタッグで料理をつくっている。
たぶんもともとが人気の地元のレストランだったと
思うのだけれど、スペイン中そして世界中に
名声がひろまったのは、
ファン・マリ父さんが
1976年に賞を獲ったところからはじまりました。
そして78年にはミシュランの星を獲り、
1989年には三つ星となったのです。
これはスペインにおいては2軒目という栄誉だったそう。
90年代に入り、娘のエレンさんが参加します。
スイスでホテルとレストランのマネジメントを学んだ彼女は
(だから6カ国語を話すんだって!)
トロワグロやピエール・ガニェールなどの
フランスのグランメゾンをはじめ、
モンテカルロのアラン・デュカスのルイXV、
ミラノ最高のリストランテといわれる
アンティカ・オステリア・デル・ポンテ、
そしてスペインのエルブジなどで料理を学んでいます。
つまり、料理界において、
生まれも育ちも最高の環境で
料理とレストランの経営を吸収し、
そしてじぶんのものにしているわけです。
彼女は2001年にインターナショナル・アカデミー・オブ・
ガストロノミーの「Chef de l’Avenir Award」を受賞、
スペイン料理界に名をはせ、
2012年にはヴーヴ・クリコ主催の
「World’s Best Female Chef Award」を獲りました。
いま、彼女は、名実ともに世界レベルの料理人。
この父娘が腕をふるっている「ARZAK」は、
大都会ではなく、北スペインのちいさな街
サンセバスティアン/ドノスティアの、
中心地からすこし離れたところ
(アパートのある旧市街からは真東に3キロほど。
市バスで停留所4つ。周辺は高級住宅地)で
ずっと営業をつづけているのです。
‥‥というようなことは、じつはこっちに来てから
ネットで読んで知ったことで、
「予約していい?」
「いいんじゃないー、おねがーい」
という会話をした半年前は、
へえ、そんなレストランがあるんだ? すごいねー、
という程度の認識でした。
ぼくはおいしいものは大好きだけど
情報グルメではないので
そういう知識にたいへん疎くって、
そもそも自分でつくって楽しくっておいしいのがいちばん。
だけど、料理人にたいする尊敬は持っているつもりだし、
レストランという場所の面白さも知っているつもり。
工場でつくられた食べ物や
「誰」がつくったのかよくわからない食べ物は、
あんまり食べたくないなあと思っているから、
東京でも外食するならなじみのところがいいし、
自分から新規開拓することがめったにないのです。
でもともだちに誘われると行くので、
そこから食の世界がちょっとずつ広がっていくのも楽しい。
そのくらいでじゅうぶん楽しいという、
「そのくらいのあんばい」が大事なんです。
今回もまさにそんな感じでの訪問でした。
ミシュラン三つ星というのも、
じつはいまこれを書きながら知って驚愕。
で──、最初の話に戻ると、
12皿のコースを食べ終わったとき、
(12皿なんでそれはない! って今はわかるけど)
体感的には所要時間は1時間だったのです。
あっという間すぎて、
「ああ、もう終わっちゃう!」
って思っていたんだもの。
それが、じつは2時間半だったと知り、
ほんとうに驚いた。
これが特殊相対性理論か! ってくらい。
ショックでした。
そう、ショックだったのです。
ARZAKの料理はおいしいです。
これは間違いない。
どうおいしいかというと、
輪郭がくっきりしていて、
各料理の個性がきわだっている。
でも「どうなっているのかさっぱりわからない」。
食材や調味料は最高のはずだけど、
「素材を活かしました。だから調理は最小限です。
そして旨味がすごいでしょう?」という
ビルバオの「nerua」とはまったくちがう。
なんと言えばいいのかなぁ‥‥。
「たのしい」
そうか、たのしいんだな。
料理は複雑怪奇と言ってもいい手の込みようで、
説明を聞いただけでは奇異にうつるほど
アヴァンギャルドな食材の組み合わせもある。
でも食べてみると「なるほど!」と、即座に納得する。
そして、うつくしい。
こんなにうつくしい料理を見たのは、ぼくは初めてです。
エディブルフラワーやコンディマンの色は、
皿の白いフレームのなかで跳ね回るように鮮やかで、
どの皿も、目の前に置かれたとき、小さな悲鳴があがる。
そしてため息。
でもそのうつくしさには茶目っ気があって、チャーミング。
きっと料理をつくり、盛りつけていることじたいが
料理人たちにとって、とても楽しいことだからなんだろうなあ。
そして料理のアイデアは、つねに
「こうしたら、どんなにみんなが喜ぶだろう!」
という思いがあるゆえ、なんだと思う。
そういうことって伝わるんです。皿の上から。
しかも。
この店は、スタッフがすばらしいのです。
サービス長は最初ちょっと大仰で、
間の獲り方が芝居がかったふうに見えたのだけれど、
打ち解けていくうちに
「ゆかいなおじさん」へと印象がかわっていく。
彼はほんのすこしだけ日本語の単語を勉強していて、
「アンコウ」とか「シラビラメ」など、
英語ではわかりにくい食材名は
日本語で言ってくれたりするから凄い。
そして別のテーブルでは完璧なフランス語も喋っていた。
料理の注文を訊くのは彼なんだけれど、
コースのなかでも、選べる料理があって、
われわれが「同じもの」にかたよると、
選ばなかった料理の説明を追加して、
それがまた「そ、それは‥‥!」という魅力にあふれているので、
じょうずに誘導されて、だれかひとりは
ちがうほうを注文しようよ! という気分になる。
「じゃあぼくは(仕方ないから)こっちにするよ」
というふうには、ならない。
食べてみると「ああ、こっちにしてよかった!」と思う。
(わりとぼくがその役割でした。)
どちらも抜群においしいから、
こっそりシェアして両方食べてね、という気持ちなんだと思う。
ソムリエは固太りのコワモテなおじ(い)さんで、
こういうひとがいかにもバスク人なのかなあ。
(そこのところはわかりませんが。)
顔はいかつく、口数も多くないけど、ジャッジが的確。
こちらを迷わせることをしないし、
不必要な予算のアップもさせない。
グラスのカヴァ(しゅわしゅわ)ではじめて、
安めのリオハの白(クリアンツァ)をボトルで頼み、
締めは赤、テンプラニーリョをグラスで。
どれも、くいっくい飲めちゃった。
フロアには、ファン・マリ父さんの奥さんなのかなあ、
ちょっとわからないけれど、
たいへんこなれたサービスをする銀髪のマダム。
すこし年下の(といってもベテランの風格のある)
女性スタッフや、お運びに専念するスタッフたちが
すいすいとテーブルの間を泳いでいる。
皿をふわっと置きながら、
余計な説明はしないけれど(何々です、とは言う)、
「さあ、どうぞ、めしあがれ」
という思いがちゃんと伝わる。
それはちょっといたずらっぽい
その表情をみていればわかる。
「きっと、おどろきますよ!」
と、その顔は語っている。
それからみんなじつによく気がつく。
食べ終わるとすぐに誰かやってきて、
ちょっと話をしてくれたりもする。
そのなかには厨房からさっと出てきた
ファン・マリ父さんやエレンさんもまじり、
ほぼスタッフ全員がすべてのテーブルで
まんべんなく声をかけていたんじゃないかなあ。
9テーブル、約40人、満席の店内は広くないうえに、
そんなふうにスタッフがたくさん動き回っているのだけれど、
うるさい感じはなくって、
むしろ、全体が、とても親密な感じになっていく。
スタッフも客も、どこにも緊張はなく、
誰もがのびのびとしていて、楽しそう。
お酒がまわってくると尚更で、
そのうち隣のテーブルとおしゃべりも始まったりする。
超のつく高級店だけれど、
こんなに笑顔と会話の絶えないレストランって知らないよー。
あと、離席したときにナプキンを畳み直してくれるでしょ、
それを手じゃなくて、
手に持ったスプーンとフォーク
(両手にそれぞれ。つまり合計4本)で
器用に畳んでくれるのです。
「手でいいじゃん」のはずなんだけど、
「こうすると喜ぶよね!」とう気持ちがあるように思える。
初めて見たけど、高級店ってこうなのかな?
ひとつひとつの料理がどうのこうの、というよりも、
(ぜんぶ違ってて、ぜんぶあたらしくて、ぜんぶおいしかったですよ)
この店は、「トータル」で「すごい」のだと思う。
まるで、ものすごく上質でアヴァンギャルドな演劇空間の
まんなかに身を置いたようだと思いました。
観客のはずが、はからずも、
自分もその舞台の一部になっていた、というような。
だからその時間がとても特別に記憶されるんだと思う。
じつは往きの市バス(市バスで行く人なんているのかな?)で
降車ボタンがきかなくって、
3駅乗り過ごして戻るというドタバタだったんだけれど
そこから含めて「おーもしろかったーっ!」です。
帰りは1時間ちかくかけて、歩いて帰ってきちゃった。
そして、おいしさとたのしさと衝撃で打ちのめされて、
誰も何もしたくなくなって、
水だけ飲んで寝ちゃった。
この私たちが、夕飯どころかつまみも、酒も飲まずに!
午前中チリーダの彫刻を見に、往復2時間かけて歩いた影響もあるけど。
(その話がほんとは先なんだけど、ARZAKのことを書きたくて、
時系列が逆になってます。次に書きます)
そんなにたくさんのレストランを知っているわけじゃないけど、
ぼくのなかで、ダントツ、飛び抜けて、いちばんになりました。
また行きたいなあ。