ぼくは自分で食べる用の調理で
基本的にレシピを参考にしない。
いや、「あれをつくりたい」とハッキリ思っているとき
(たとえば飯島奈美さんの料理を再現したいとき)とか、
わかっているような料理でも、
わからないことが出てきたとき、
たとえば天ぷらって、野菜は何度だっけ?
みたいなことを知るのに参考にしたりする。
でもふだんは使わない。なぜかというと、
つくるのが「名もない料理」だからです。
載ってないのです。
(つまり、買い出しに行く時、レシピは頭にない。
買い出しに行く自分は、調理をする自分に期待をして、
これよろしくね! みたいな気分でいる、らしい。)
レシピ本は大好きなのだけれど、
プロってすげー! という、読書。
フィクションみたいに楽しんでおります。
宇宙船かっけー、というのと、
この豚肉でけー、というのは近い。
じゃあ自分でメモをして
自分のレシピ帳をつくってるのかというと、
そういうことをするわけでもない。
そういう要請があればやるけど、
ふだんはしない。めんどくさい。
菓子づくりが好きだったら、したんだと思う。
レシピも参考にするしメモもしただろう。
あれは、ほんとに、適当じゃ、できないからねえ。
それからぼくは味見をしない。
客人につくるときは、しなくもないけど、
ふだんは全くといっていいほど、しない。
当然失敗もする。でもたいてい、
「味が足りない」ほうの失敗なので、
卓上でなんとかできるのである。
「なんで、味見をしないのかなあ」と
自分でもちょっと思っていた。
主義として「しない」という積極的な「しない」ではなく
「べつにいいや」という消極的な「しない」である。
めんどくさい。洗い物増えるし。
まあ、経験的に、
しなくても食べられるものがつくれるから、
とう理由がひとつあるだろう。
しかしそれよりもでかいのは
「しないほうが料理は楽しいから」なのでした。
だって、どうなっちゃうかわからないんだよ!
こんなに楽しいことはないでしょう。
それに、食べてびっくりするでしょう。
おいしいと特に。
つまりギャンブル的な要素があるのだ、自炊って。
しかも、一緒に食べる人がいると、ギャンブル性が高まる。
褒め言葉もでかいが、罵りや失望もでかいのだ。
ああドキドキ。そうやって調理は上達するのだ。
(自画自賛だけではうまくなりません。)
なぜそんなことを、自炊歴32年にして考えたのかというと、
さっき夕飯でつくったトマトソース的なものが
とんでもなく美味しかったからです。
それも南イタリア的な、人生万歳のうまさである。
「なんじゃこりゃ! リストランテか!」というレベル。
シチュエーションによっては人が泣くレベル。
こういう喜びは、「レシピ見ない、味見しない」ならではだ。
で、えーっと、これいったいどうやってつくったんだっけ?
と思い返してみるに、腕ではなく、
「材料がいい」の一言に尽きました。
しかも、材料に不安があったので、
「どうやって旨味を出そうか」と考えた。
・マンゲントンのおいしいベーコン
これはほんとうにおいしい。近所にできた店で買った。
・生にんにく、自家製タカノツメ
・黄ズッキーニ(半額セールだけど、わりといいもの)
・茄子(同上。生産者がわかるような野菜です)
ここらへんは、都会的なる無農薬あるいは低農薬系で、
しかも昨今のそういうものはおいしいわけです。
だから安心。
・オリーブオイル
これは特別なものじゃなくて、アマゾンで買った安いもの。
ほんとうはオリーブじゃないのかもしれないというくらいのもの。
これを、ストウブの鍋で焼き付けて
しばらく野菜に油と脂をまわしてから、
・トマト缶(これは別にふつう)
・アメーラトマト(生食用です)
・イタリアの海塩(ちょい強めにしました)
を入れた。トマト缶が想像より水気が足りなかったので
・自然派のスプマンテ(きのう飲んだ残り)
を入れた。そして蓋をしてコトコトと煮たのみである。
パスタはといえば、これしかなかったので、とっておきの
・ローマで買ってきた高級リングイネ(ああもったいない)
を茹でて、あつあつのうちに
・ボルディエのバター
で和えた。これでチーズをかければ立派においしいはず、
というところまで持っていったのが勝因かもしれない。
これを皿に盛ってソースをかけてから、
・おなじくローマで買ってきたパルミジャーノ(いつのだよ)
を(カビをこそげ落としてから)すりおろしてかけた。
なくてもいいがあったらうれしい系。ぎりぎりTOO MUCHじゃなかった。
これ以上旨味が多いと、しつこかったかもしれない。
ケイパーとかツナとかね。
しかし、そりゃ、うまいよなあ。こりゃ腕じゃないよなあ。
素材だー。あっはっは。
買い出しをしてくれた過去の自分に感謝。
ひとり調理チーム。