最近、たて続けに、
2人のグルメな友人から同じ店の誘いを受けた。
そこはぼくも一度だけ行った事がある、
とても評判のいい店。予約もとれないことで有名だ。
そう、そこは、とても気持ちのいいお店だった。
店は小さくて、清潔で、キッチンは見えないけれど、
料理人がプライドをもって調理するすがたが想像できた。
気持ちよく「いただきます」「ごちそうさま」が言える店だ。
そして、おいしかった、と思う。とても。
「おいしいね」と言った記憶はあるのだから、
じっさい、おいしかったのだ。
でもあの味は、なぜだか、ぼくの記憶に残っていない。
たいていの味を頭の中で思い出せるのは
ぼくの特技だと思っているのだが、
なぜか、あの店の味は、薄い靄の彼方である。
うまく思い出せない。おいしかったんだよな、
という言葉だけがふわふわと宙を舞う。
桃源郷というものがあるならば、
そこの料理はこういうものなんだろうか。
浦島太郎が食べた竜宮城の料理は
こういうことなんだろうか。
そんな、まぼろしのような記憶しか残っていないのだ。
だから、多くの人が手ばなしに絶賛しているのが、
謎に思えた。そんなだったかな? と。
とても丁寧な料理である。
丁寧というものを調理したら
ここの料理になるんだと思う。
料理ってこういうことだよ、
ひとがものをいただくって、こういうことなんだよ、
という、もしかしたらぼくらがそれぞれ抱えている、
いろいろな記憶をよびさますような、
ひとによっては郷愁までもを
巻き込むような料理だったと思う。
でも、ぼくはそれは
「哲学」を食べているような気がしたのだ。
それはそれでとても評価すべきことだ。
どうやら高齢のかたがなさっている店だという。
後継者はいなさそうだった。
だからその味は、いまを逃せば、
もう二度と体験できないのかもしれない。
つまり「いま、食べておかなくちゃ」と考えるのは
とても自然なんだろうと思う。
ぼくが誰かを誘うなら、そんなふうに口説くと思う。
あの店で食事をするという体験は、いましかできないんだよ、
だからそれを共有しようよ、と。
ただ、ぼくは、いま、
あらためてそれを追体験したい気分ではない。
たぶん。
音楽で言えば、新しいものが聴きたい。
ずば抜けて技術のある人が
もっと新しいことをやろうとして、
こけつまろびつ挑戦しつづけるような現場に居合わせたい。
できれば奇跡の一瞬を見たい。
ふだん自炊のぼくは、外食をするなら、
そんな料理が食べたいと思うのだ。
クラシックのすばらしい弦楽四重奏を
落ち着いて聴くようなことを、
いまのぼくは欲していないのだった。
たぶん、もっと年齢を重ねとき、
きっとあの店をあらてめてなつかしく思い、
失ってしまったことを後悔するんだろうと思う。
その時には、もう遅い。
けれども「いま」は、ぼくは行かないことを、
あえて、選んでいる。
せっかく誘っていただいたのだから、
ほいほい行けばよいものだが、
こと料理になると、なぜここまでかたくななのか、
自分でも不思議なんだけれど。
じゃあ今どんな料理が食べたいの? と訊かれたら、
海外で修業した若い人がつくるあたらしい料理と答えようかな。
自分と同世代の料理人の挑戦は、わかる。評価もしている。
その弟子筋も、同じ系列なので「わかる」。
(そんななかで、のびのび自由に勝手にやってる料理人が好き。)
でも初めて行くなら、挑戦系がいいなあ。
ぼくの同世代が「かなわねえなあ」って思っている、
自分の存在をおびやかすような若手の料理が食べたい。
ぽーんと、違うところから飛び込んできて、
胃袋とたましいをかっさらってる、みたいな。
でも「大喜利かよ!」なひねりの効き過ぎた料理は
そんなに興味はないんだけどね。