前回の追記です。
その宿の部屋にないものは、
テレビと時計と湯沸かしである。
20世紀的リゾートの哲学だ。
「それがあると台無し」、
日常からいかに遠く離れるかが
ハイダウェイの意義なんだろう。
テレビは溢れる情報の象徴、
時計は支配の象徴、
湯沸かしはルーティーンとなった家事の象徴。
具体的に言えばせっかくのリゾートで
インスタントラーメンをすすられても困るわけだ。
わかる。
ならば。
素晴らしいキッチンと
プライベートダイニングを
つくればいいんじゃないか。
共同棟としてひとつ、あるいはせめて1棟に
そういう設備をつくるというのはどうだ。
共同棟は予約制でいいと思う。
朝、野菜やフルーツを市場で買い、
肉や魚はシェフに相談して分けてもらう。
(市場のはかなり不衛生なのです。)
もちろん調理のアドバイスも受けられる。
スパイスや調味料、油、
小麦粉や米などの乾物は
ストックしてあるものを使っていい。
食器は宿のあの美しいものを使う。
テーブルコーディネイトはあの宿のスタイル。
いつでもパリッとした布ナプキンに
磨き抜かれた重いカトラリー、
そして必ず、花。
しかし問題は
「そんなの喜ぶ人、いないんじゃない?」
ってことだ。
そうだろうなあ。
リゾートというものは
ある意味20世紀に完成しているものかもしれない。
ことに南洋のそれは、植民地時代への
(政治ではなく、それ故に生まれてしまった、
奇妙で新しかったキメラ的な文化への)
甘美な憧憬っていう呪縛があり、
そこから、いまだに、逃げ出せていないように思う。
ぼくも、それには、うっとりしてしまう。
そこに魔力があるのはいなめないし、
ぼくもまた、きっと、訪れるにちがいない。
あの宿はたぶんその形の、最終形なんだろう。
ちなみにWi-Fiは各コテージでつながるどころか
敷地内、どこでもつながる。
ただし、ひじょうにのろくて不安定。
これがじつはかなりのストレスだったりして!
「ここでは、インターネットにはつながりません。
それが私共の哲学です」
というわけには、いかないらしい。
だったらサクサクにしてほしいよね。
さあ、新しいものは、また、生まれるのかな?