母から電話。
さちこおばちゃんが亡くなったという報せ。
「いっこちゃん(母の姉)とふたりで
火葬にしてきたわ!
48時間でぜんぶ終わったわよ、すごいでしょう!」
たしかにすごいが、このひとたち、はやすぎます。
誰も呼ばずにいもうと二人でって‥‥。
ほんとさっさとこういうことをやっちゃうからなあ。
明るい姉妹なのは48年つきあってきてよく知ってるけど、
ここまで明るいとたいしたものだと思います。
すごいよ井出家。
「呼んでくれてもよかったのに」
「だってあんたプラハ行ってたじゃない」
「もう帰ってきてたけど‥‥」
「それよりきれいな顔だった!
90歳なのにしわなんかなくてね、
頬なんかピンク色よ。
あたしたちはこんなにしわくちゃなのに!
爪も、薄紅色のマニキュア塗ったみたいに、
きれいだった。
火葬場の人も驚いてたわよ。
きれいねー、さちこちゃん、って、
ほっぺたさわったら、
ニコーって笑ったわよ!」
そっかあ、ほんとに死んじゃったんだなあ。
心筋梗塞の発作が食事中に起きて誤嚥をおこし
それがもとで肺炎に罹ったそうだ。
心と記憶が少女に戻っていたらしいから、
それでもそんなふうに
きれいなままでよかったねえ、おばちゃん。
さちこおばちゃんのこと、
むかしブログに書いたのを、
再録させてください。
●逗子の伯母の話。
はたちで満州銀行に勤めることになり
現地の支店長をしていた彼と出会って。
ほんとは日本に奥さんも子供もいたんだけど
それを知らずにつき合い始め、
戻れない関係になり、伯母は覚悟を決めました。
結核のうえ下に5人の弟妹がいたけれど
私は一生結婚しないで、この人の恋人として死ぬからと
宣言したのはたぶんまだ彼女が22歳くらいのとき。
才気あふれものすごい美人で料理は茶懐石が作れる腕、
裁縫は和洋なんでも来い、しかもセンスがよかった伯母。
静岡一の女学校では総代をつとめる頭のよさでした。
彼のほうは表立って政治の世界にいるというより
福田事務所の重鎮でありつつ会社を興し、
しかし人の保証人になって都落ち。
目黒のどでかい土地屋敷をなくし
そうして暮らしはじめたのが逗子の山の根の
斜面に立つちいさな一軒家でした。
子どもたちが独立し(いまやみんな上場企業の取締役)
やがて奥様を亡くされたとき、
「一緒にくらそう」と言ってくれた彼は、
もうすでに老齢になっていました。
まさか、一緒に暮らせる日が来るとは思わなかった。
と、伯母は、彼の死後、ぼくに言いました。
「籍をいれてやるから。一緒になろう」
という彼の求婚にはけっして首をたてに振らず、
籍を入れることは
これまでの四十何年をあたしの思いを
無駄にすることだと拒否したのでした。
しかし。一緒に暮らしはじめてすぐに彼は病気に。
酸素ボンベを常備して自宅の寝椅子と
鎌倉病院での入院生活を繰り返す暮らしが始まります。
看取ることになるな、と伯母は思ったそうです。
まさか自分がこの男を看取ることができるなんて、
何に感謝したらいいかわからないくらい、
充実した日々だったようです。
彼──ぼくは「おじさん」と呼んでましたが
姻戚関係にない女の甥であるぼくのことも
とてもかわいがってくれて
「ちゃんと四年で卒業したらどこだって入れてやる。
三井はどうだ。三菱か」
みたいなことを最期まで言いながら死にました。
べつにぼくがとくべつかわいかったわけではなくて
おれが愛したこの女に、なにかしてやりたかった、
そのときにたまたまふらふらしている甥というのが
ぼくだった、というだけの話です。
ぼくは4年で卒業しなかったし
そういうふうに生きて行くつもりは微塵もなかったけど
──おじさんありがとう。
伯母はその後、彼の遺した家でずっと暮らしました。
石段を100段くらい上がらなくちゃいけない
急勾配の斜面に建つ家は日影のうえに傾いていて
よく遊びに行ったけど、海辺なのに森の別荘みたいで。
そこは彼が旧い知り合いから
都落ちするときに「ここに住め」とゆずってくれたもので
もう誰のものかわからないことになっていたし
彼の息子たちもどうぞそのまま住んでくれと
言ってくれていたそうです。
奥様が亡くなられたとき、伯母の存在を知っていた
息子たちは、ぜひ後妻に来てやってくれ、
おやじの面倒をみてやってはくれないかと
懇願したそうですが
もちろんそれも断ったそうです。
仏壇のある、見晴らしだけはいい和室が
湿気でだんだん床がへこんで
家の傾きもひどくなってきても
「いっそ土砂崩れで死ぬのがいい」と
ぜったいに逗子を出ようとしなかった伯母ですが
目をやられ、晩年はあかりしか感じませんでした。
それでも週1回六本木の妹のところに出てきて
ずっと習っていた習字を続け、
そうそう、伯母はものすごい達筆で、
ぼくは世界で一番彼女の筆が好きですが、
やがて週一の東京行きもかなわなくなり、
人に会わずに暮らすようになり
たまに行く母たちが
「ぼけはじめたかもしれない」と
言い出したのはここ1、2年のことでした。
ぼけた老女の一人暮らしは
キャッチセールスの格好の餌食で
必要のない水道管の取り換えだとか
屋根の修繕だとかを勝手にやられて
どんどんお金がとられていっているらしい、
これはまずいと知った母たちは
逗子から離そうとしましたが
ほんとうに頑固に「ここで死ぬ」の一点張り。
でも、今回の引っ越しは、
たぶん、ほんとうに、ぼけてしまったのでしょう、
おそらく、彼女がどこか遠いところを見つめているままに
そういうことになったのだと思います。
女学生時代をすごした静岡に移り住んでいることを、
本人は、わからないのかもしれません。
まだ逗子にいるつもりなのかもしれません。
いつもみんなが訪ねてくる夏のままなのかもしれません。
日傘をさして石段を降りて踏み切りを渡り、
いつもの魚屋で鰺を買って
義明が来るからロールケーキも買おうと
思っているかもしれません。
せっかく来たのだからここに泊まって
海で遊んでおいでと言いたいのかもしれません。
「なんで井出さんは結婚なさらないの」
と満州銀行時代に訊かれると
「私には召集された許婚がいたのだけれど
戦争で亡くなってしまったの。
でも、どうしても信じられないので
こうして待っているのよ」
という方便は、いつのまにか彼女のなかでほんとうになり
「テレビで昭和史の戦時中のはなしとか見ると、
あの人は生きているのかしら、
わたしのことを覚えているかしら‥‥なんて、
いないはずのウソの恋人のことを思って
泣けてきちゃうのよね。ばかよねえ」
と、明るく言っていたけれど、
召集された彼こそはまさしく
伯母が愛に生きたその彼と
おなじ、だったのだと思います。
ねえ、さちこおばちゃん、
いつ、おじさんのこと、ふっ切れたの?
一緒に住めることになったとき?
そんな簡単じゃなかったわよ。
そうねえ‥‥死んでからね。
死んじゃって、やっと、
すっきりしたかな? あははは‥‥。
(以上2005年3月のブログより)
●お見舞いの話。
日曜日。
伯母のさらに上の伯母(呼び名は、さちこちゃん)の
入っている、介護施設にお見舞いに。
さちこちゃんは、伯父を看取ったあと、
ながく逗子にひとりで住んでいたんだけど、
アルツハイマーに罹り、
どうも「おたくの水道管だめになってますよ、
うちが工事します」みたいな悪徳業者に騙されて
お金をとられてるみたいだというので、
うちの母たち(つまり妹たち)が団結して
引き払わせて、静岡の介護施設に入れた。
徳州会がやってる新築の施設で、
これまた、きちんとした素敵な施設。
ぼくも今度いつくるかわからないし、
今日は時間もちょっとあるから、
「さちこちゃん、義明のこと、わからないと思うよ」
と、昨日のいっこ伯母ちゃんが言うけど、
でもまあそれはそれでいいや、
こちらの気持ちですから‥‥と、
タクシーで母、いっこ伯母ちゃんと3人で施設へ。
アルツハイマーといっても、
クスリをのんでいるので、進行はしていない、
けれども、新しい記憶が定着しないうえ、
いろんなことがうまく思い出せない状態みたい。
「だーれだ? このおじさん」と、いっこちゃんが言う。
ちょ、ちょっと、おじさんはないでしょう!
「ありゃー、わかんないねえ!」
「義明だよ」
「ええーっ。大きくなったねえ!
こんなちっちゃかったのに」
大人になってから何度も会っているんだけど、
どうも、ぼくのことは10歳くらいのときまでのことしか
おぼえてないみたい。
うちの母(伯母にとっては妹)ですらわからない。
でも「かほる(母の名)よ?」と言うと
「やだ、かほちゃん! わかんなかった!」。
そのあとは、会話を続けているぶんには、
かほちゃん、義明、と、ちゃんと話すので、
RAMみたいなものは機能しているんだな。
でも、一晩寝ると忘れちゃうみたい。
ただ、きれいにお化粧をしていたし、
髪も(もう85なんだけど)最近黒くなってきたというくらい元気。
「前は、三つ編みだったのよ」
と、やはりずいぶん前の記憶と、いまがつながってるみたい。
体は丈夫、ということなので、
ともかくも安心。
こういう状態で、長生きすることが
いいのかどうかわからないけど、
元気で笑っているうちは、まだ、召されてほしくないな、
と思う。
また来るね。
(以上2007年7月のブログより)