うつわのように、その気になれば一生使えるぞってものが揃ってくると、
うれしい反面、なんていうんだろうな、
「いろんなことが決まってきちゃったんだよな」という、
もうこれでゴール? みたいな寂しさがうまれる。
いやもうわがままな話なのは承知です。
それにうつわに人生を象徴させることもないんだが、
物欲まみれであれも欲しいこれも欲しいという季節は
もう終わりなんだよなみたいな気分になるのです。
いやほんと、作家の友人ができたこの10年、
とくにうつわのコンテンツの準備を始めた一昨年あたりからとくに、
磁場が生まれたみたいにいろんなものが揃って、
いま食器棚を見晴らしたら、「完成」なムードが漂い、
それはそれで寂しいものなんである。
ああなんというわがまま。
そう思う理由のひとつは食器棚のキャパだったので、
引っ越して第2の食器棚を導入したんだけれど
それも高橋禎彦さんのガラスであっという間に埋まった。
高橋さんにも「武井さん、ぼくのものは
一通り持ってるってことになるねー」とニコニコ言われ、
それもまたうれしいような寂しいような。
持ってないです、それに高橋さんは
どんどん変容するから大丈夫。
そう、現役の作家の新作を楽しみにするという気分は
きっちり持ち続けているので、そこは大丈夫なんだけど。
まさしくその意味で、本だとか、洋服は、
どんどん新しいものが出るし、次はどう来るんだろうという
同年代に生きているならではの楽しみがある。
そういう意味では、人生完成なんてしないぞという
前向きな気分になることができますね。
ぼくみたいな性格の人間が金があったら
ぜったい普請道楽になると思う。
ほんでもって増改築くりかえして
はちゃめちゃな家になっていくんだよね。
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こないだ建築家の人と話してたんだけど、
日本と西欧の、個人の境界線の違いというか、
たとえば日本は、うつわがパーソナル。
これお父さんのお茶わん、これぼくの、ってのがある。
けれど西欧は、パブリック。基本同じ。
箸はパーソナル、カトラリーはパブリック。
日本も、客人用のうつわだとか箸はパブリックで、
「揃い」という概念があるけど、
西欧はそれが家庭内にも入っているんですね。
家は、というと、西欧は個人の部屋があって
完全に石の壁で区切られてたりするけど、
日本は(旧来)個人の部屋はなくて仕切りも紙。
なんと紙(ふすまとか障子とか)。
個人で部屋をもつ西欧人は、食べ物まわりはパブリック、
日本はその逆。
「個人として」居る場所が、
食卓か部屋か、そのコマの置き方の違い、
というだけの話かもしれないけど、
面白いもんだなあと思って。
ぼくはずっと個人の箸を使ってたんだけど、
山中恵介さんが利休箸を塗りにしてつくってる箸が、
土楽の福森家で使われていて、
それがとても使いやすいものだから、まとめて買った。
そうすると、2膳以上あると混ざっちゃって、
「これが俺のだよな」というのがわからなくなる。
客人に出す箸も同じなので、
もういいや混ぜちゃえということで、
毎日、てきとうに数膳あるなかから使っております。
しかしながら「箸が個人のものではない」って
なかなか居心地の悪いものですね。
なにか印をつけるべかなー。
と、ここまで書いてふと思ったけど
日本の客人用のパブリックなうつわとか箸って
「漆」ですね。あるいは磁器。
個人に染まりにくい素材のものを使ってる気がする。
そのへんもなにか関係あるかもしれない。
陶器は育つから、
けっこうパーソナルな道具ってことかもしれないです。
(結論が出ないままに了)