取ったチケットの日が出張と重なって手放した
コクーン歌舞伎『佐倉義民傳』、
あきらめようかと思ったけど
直感で観ておいたほうがいいという声がして
金券ショップでチケット入手、
きょう、行ってきました。
直感、ただしかった。行ってよかった。
BL(バルコニー左側)席最前列4番。いい席でした。
そもそもコクーン歌舞伎って
大立ち回りに派手な見せ場、
歌舞伎を超えた自由な仕掛けと演出と壮大なドラマ、
「楽しい」を軸に、
最上級のエンターテインメントを提供するもの、だと思ってた。
そしてそれは串田和美さんと中村勘三郎さんのプロジェクトであり
(最初はちがったみたいですが)、
そんな気分で東海道四谷怪談も、
夏祭浪花鑑も、桜姫も観てきました。
が──、『佐倉義民傳』です。
2010年の渋谷で、このテーマを取り上げるって、
どういうことだろう?
と、観るまでほんとうにわからなかった。
『佐倉義民傳』はかんたんに言っちゃうと
圧政に苦しんだ江戸の佐倉領内の百姓のはなし。農民劇。
二割増しとなった年貢、度重なる酷い仕打ちに、
一揆寸前まで耐えていたものたちをなだめ、
名主・木内宗吾が訴状を持ってお上に。
しかし阿呆な殿様と悪知恵に長けた家老による
もう愚の骨頂のような「政」(まつりごと)の暗闇に
宗吾はまきこまれてゆき‥‥という、
悲劇でもありながら
自由民権運動のシンボルにもなった芝居、
ということなんだけど、
これをエンターテインメントに?
音楽がラップらしい、とか、いくつかその要素は
聞こえてきてはいたんだけれど、
そもそも、なぜ『佐倉義民傳』かということが
とっても疑問だった。
そして観てどうだったかというと、
(以下、ネタバレします)
音楽の使い方と、ラップと群舞が入るという演出をのぞけば
じつにまっとうな歌舞伎が、9割、つづき、
最後の処刑のシーンではもう、
涙が頬を伝ってしかたないほどの名演。
──と、そこから暗転、江戸時代から明治初期に飛び、
これが明治の小屋でかけられていた芝居?
ということになる。ずかずかと憲兵がやってきて、
不謹慎な芝居をかけた、客もろとも全員連行! となる。
そこから反乱が起きて、群舞と合唱へ。
江戸であり明治であり、
昭和、そして平成までも含む歌詞、
それもかなり扇動的な歌詞のラップの大合唱へつながる。
江戸から現代までを一気に結び、
「ほんとに、今、世の中、これでいいわけ?
ニッポン、だめになっちゃうよ?」という
強い強いメッセージを込めて、
歌舞伎役者たちが声をはりあげる。
その一気呵成ぶりは、
乱暴できわめて青臭いくらいのものなんだけれど、
ついでに言うと、ある意味、この芝居、ラップも音楽も、
すごく半端に古い感じがしたんだけれど、
それでも、まっすぐに、伝わってたと思う。
(そして、たぶん、けっ、と思った人も多いと思う。)
ぼくはどうだったかというと
「この人たち、本気なんだ」と思った。
演劇は、大事なことを世の中に伝える役目を担っていると、
本気で思っているんだ、と。
そして「いま」なにをすべきかということについて
ほんとうに真剣に向き合っているんだと。
これはぼくの思う中島みゆき像にも通じている。
パンフレットにこうあった。
「これは誰かが
やらねばならぬことなのだ。
ならばわしがやる。
それだけのことだ。」(台詞より)
「今、世界中の追いつめられた者たちの
叫び声に耳を傾けることの大切さと
困難さについて考えざるを得ないことに
気付かされます。」(串田さん)
「この義民傳にゆっくりとひたって、
こういう人がいたんだなと、
思いを馳せてくだされば。
そうして、今が良い時代なのかどうかということを、
考えてくださったらなぁと思います。」
(勘三郎さん)
さあ、いまのニッポンで、ぼくができることは何?
●
じつはきょう午前中に
ジェフ・ブリッジスとコリン・フアレルの、
歌もギターも上手いんでビックリの
「クレイジー・ハート」っていう映画を観てて、
そのことも書こうと思ってたんだけど、
‥‥どうでもいいやぁ。アメリカの話はさ。
(ん、しずかで落ち着いた“悪くない”作品でしたよー。
よくもわるくも「T・ボーン・バーネット作品」
なんだろうけどね。)
コクーン歌舞伎『佐倉義民傳』、
あきらめようかと思ったけど
直感で観ておいたほうがいいという声がして
金券ショップでチケット入手、
きょう、行ってきました。
直感、ただしかった。行ってよかった。
BL(バルコニー左側)席最前列4番。いい席でした。
そもそもコクーン歌舞伎って
大立ち回りに派手な見せ場、
歌舞伎を超えた自由な仕掛けと演出と壮大なドラマ、
「楽しい」を軸に、
最上級のエンターテインメントを提供するもの、だと思ってた。
そしてそれは串田和美さんと中村勘三郎さんのプロジェクトであり
(最初はちがったみたいですが)、
そんな気分で東海道四谷怪談も、
夏祭浪花鑑も、桜姫も観てきました。
が──、『佐倉義民傳』です。
2010年の渋谷で、このテーマを取り上げるって、
どういうことだろう?
と、観るまでほんとうにわからなかった。
『佐倉義民傳』はかんたんに言っちゃうと
圧政に苦しんだ江戸の佐倉領内の百姓のはなし。農民劇。
二割増しとなった年貢、度重なる酷い仕打ちに、
一揆寸前まで耐えていたものたちをなだめ、
名主・木内宗吾が訴状を持ってお上に。
しかし阿呆な殿様と悪知恵に長けた家老による
もう愚の骨頂のような「政」(まつりごと)の暗闇に
宗吾はまきこまれてゆき‥‥という、
悲劇でもありながら
自由民権運動のシンボルにもなった芝居、
ということなんだけど、
これをエンターテインメントに?
音楽がラップらしい、とか、いくつかその要素は
聞こえてきてはいたんだけれど、
そもそも、なぜ『佐倉義民傳』かということが
とっても疑問だった。
そして観てどうだったかというと、
(以下、ネタバレします)
音楽の使い方と、ラップと群舞が入るという演出をのぞけば
じつにまっとうな歌舞伎が、9割、つづき、
最後の処刑のシーンではもう、
涙が頬を伝ってしかたないほどの名演。
──と、そこから暗転、江戸時代から明治初期に飛び、
これが明治の小屋でかけられていた芝居?
ということになる。ずかずかと憲兵がやってきて、
不謹慎な芝居をかけた、客もろとも全員連行! となる。
そこから反乱が起きて、群舞と合唱へ。
江戸であり明治であり、
昭和、そして平成までも含む歌詞、
それもかなり扇動的な歌詞のラップの大合唱へつながる。
江戸から現代までを一気に結び、
「ほんとに、今、世の中、これでいいわけ?
ニッポン、だめになっちゃうよ?」という
強い強いメッセージを込めて、
歌舞伎役者たちが声をはりあげる。
その一気呵成ぶりは、
乱暴できわめて青臭いくらいのものなんだけれど、
ついでに言うと、ある意味、この芝居、ラップも音楽も、
すごく半端に古い感じがしたんだけれど、
それでも、まっすぐに、伝わってたと思う。
(そして、たぶん、けっ、と思った人も多いと思う。)
ぼくはどうだったかというと
「この人たち、本気なんだ」と思った。
演劇は、大事なことを世の中に伝える役目を担っていると、
本気で思っているんだ、と。
そして「いま」なにをすべきかということについて
ほんとうに真剣に向き合っているんだと。
これはぼくの思う中島みゆき像にも通じている。
パンフレットにこうあった。
「これは誰かが
やらねばならぬことなのだ。
ならばわしがやる。
それだけのことだ。」(台詞より)
「今、世界中の追いつめられた者たちの
叫び声に耳を傾けることの大切さと
困難さについて考えざるを得ないことに
気付かされます。」(串田さん)
「この義民傳にゆっくりとひたって、
こういう人がいたんだなと、
思いを馳せてくだされば。
そうして、今が良い時代なのかどうかということを、
考えてくださったらなぁと思います。」
(勘三郎さん)
さあ、いまのニッポンで、ぼくができることは何?
●
じつはきょう午前中に
ジェフ・ブリッジスとコリン・フアレルの、
歌もギターも上手いんでビックリの
「クレイジー・ハート」っていう映画を観てて、
そのことも書こうと思ってたんだけど、
‥‥どうでもいいやぁ。アメリカの話はさ。
(ん、しずかで落ち着いた“悪くない”作品でしたよー。
よくもわるくも「T・ボーン・バーネット作品」
なんだろうけどね。)