twitterでつながってるあの「安心」の感じがなぁ、と友人。
どうにも気持ちがよくないんだよなと。
ちなみに彼はtwitterはやっていない。
安心かあ。たしかにあそこには
「安心に似たもの」の濁流が、流れているよねえ。
試しに全然知らない人のツイート読んでみるとわかる。
依存するように日記を書き(手書きのは捨てました)、
自分でホームページをつくり、
細々とながらブログを続けてきたタイプの自分からすると、
(mixiもやってますよん)
そもそもtwitterくらいの書き方で
「自分のこと、わかってくれてるよね!」
的な関係の構築は無理だと思う。
それはまぼろしだと思う。
だって、あの、そもそもね、
ほんとにいま何してるか、何考えてるか、
全部書けるわけないじゃない。
うんこなうとか誰とこういうセックスしてるよとか
書くわけないじゃない。
これって自分だけ、あるいはそれを共有する
ごくごく小さな濃密なコミュニティ(親子、恋人など)とだけ
「体で」共有することでしょう。
つまりはボディ・トークなもの。
言葉じゃなく、肉体が語っている時というのがあること、
みんな、知っているはずだよねえ。
そのとき言葉は道具としてとても有効だけれどもね。
じゃ一人の行動をすべて書くかって言われたら
「オナニーなう」にしてもさ、
まともな人は誰も書かないじゃない。
いくら親しくても「目をそむけたい」ことは、
見られては困ることなわけで、
つまり公開はしないというのが
もうほんとにむかしっからの集団のルール。
いくら時代がかわっても
人間関係において他人に公表するのがタブーであることは変わらないと思う。
ま、女王様がいて「縛りなう」なんて書くのはまたプレイですから
それはそれでいいとして、と。
もうひとつは「ほんとに考えていること」、
自分のこころが、ほんとうに思っていること。
これはぜったいに140字どころか
ことばになんて、なりようがないし、
とくに「こころのなかでもやもやしている、
けどすごく大事な気がしていること」は
言葉にしたら、消えていく。
そんなことがどうにかこうにか折り合いをつけられて
見事な言葉にできるのならば、
誰でもニーチェになれる。
そういうことをふくめた「自分」だから、
そうかんたんに、他人にわかっては、もらえない。
たまにほんとにすっとわかっちゃう人が現れて、
そのときに恋に落ちたりするんだけど、
その話はともかく、twitter。
ぼくはそんなこと言いながらtwitterやってるわけだけど、
これ、ほんと、心が弱っているときに依存したくなるというのを
経験的に思った。
それが彼のいう「安心」の正体かもしれないなあ。
けれどそれはほんとうの「安心」じゃなくて
「安心に似たもの」でしかないんだと、思う。
「どこでもドア」なんて発明されちゃったらすごく嫌だ、
と思っている気分と、よく似ています。
そこには、よじ登ってたどり着きたい。
どうにも気持ちがよくないんだよなと。
ちなみに彼はtwitterはやっていない。
安心かあ。たしかにあそこには
「安心に似たもの」の濁流が、流れているよねえ。
試しに全然知らない人のツイート読んでみるとわかる。
依存するように日記を書き(手書きのは捨てました)、
自分でホームページをつくり、
細々とながらブログを続けてきたタイプの自分からすると、
(mixiもやってますよん)
そもそもtwitterくらいの書き方で
「自分のこと、わかってくれてるよね!」
的な関係の構築は無理だと思う。
それはまぼろしだと思う。
だって、あの、そもそもね、
ほんとにいま何してるか、何考えてるか、
全部書けるわけないじゃない。
うんこなうとか誰とこういうセックスしてるよとか
書くわけないじゃない。
これって自分だけ、あるいはそれを共有する
ごくごく小さな濃密なコミュニティ(親子、恋人など)とだけ
「体で」共有することでしょう。
つまりはボディ・トークなもの。
言葉じゃなく、肉体が語っている時というのがあること、
みんな、知っているはずだよねえ。
そのとき言葉は道具としてとても有効だけれどもね。
じゃ一人の行動をすべて書くかって言われたら
「オナニーなう」にしてもさ、
まともな人は誰も書かないじゃない。
いくら親しくても「目をそむけたい」ことは、
見られては困ることなわけで、
つまり公開はしないというのが
もうほんとにむかしっからの集団のルール。
いくら時代がかわっても
人間関係において他人に公表するのがタブーであることは変わらないと思う。
ま、女王様がいて「縛りなう」なんて書くのはまたプレイですから
それはそれでいいとして、と。
もうひとつは「ほんとに考えていること」、
自分のこころが、ほんとうに思っていること。
これはぜったいに140字どころか
ことばになんて、なりようがないし、
とくに「こころのなかでもやもやしている、
けどすごく大事な気がしていること」は
言葉にしたら、消えていく。
そんなことがどうにかこうにか折り合いをつけられて
見事な言葉にできるのならば、
誰でもニーチェになれる。
そういうことをふくめた「自分」だから、
そうかんたんに、他人にわかっては、もらえない。
たまにほんとにすっとわかっちゃう人が現れて、
そのときに恋に落ちたりするんだけど、
その話はともかく、twitter。
ぼくはそんなこと言いながらtwitterやってるわけだけど、
これ、ほんと、心が弱っているときに依存したくなるというのを
経験的に思った。
それが彼のいう「安心」の正体かもしれないなあ。
けれどそれはほんとうの「安心」じゃなくて
「安心に似たもの」でしかないんだと、思う。
「どこでもドア」なんて発明されちゃったらすごく嫌だ、
と思っている気分と、よく似ています。
そこには、よじ登ってたどり着きたい。