「牡丹灯籠」といえば、
一度会っただけの美男の浪人萩原新三朗に
恋い焦がれるあまり恋煩いで死んでしまった
旗本の娘お露さん、の幽霊が、
あとを追って死んだ女中のお米(よね)さんをともなって
夜な夜な、からんころんと下駄の音をひびかせながら
谷中の墓地から根津の新三朗の長屋にやってくる‥‥、
という「怪談」だと思ってました。
ちなみに新三朗がこのままでは死んでしまうと心配した
同じ長屋に住む人相観の白翁堂勇斎が
谷中の新幡随院の良石和尚に助言を受け
お札、念仏、そしてお守りに金無垢の海音如来を借り
お露の幽霊を追い払おうとする。
ところが長屋に住む下男の伴蔵・お峯夫妻が
お露の幽霊が持ってきた百両とひきかえに
お札をはがし、海音如来も土に埋め、
ついにお露は新三朗を取り殺す‥‥、
という結末。
これが「すべての結末」だと思ってました。
ちがったんだ!
ということを、本棚の「三遊亭圓朝全集 第一巻」で
あらためて知ったことが、
立川志の輔さんが今回「牡丹灯籠」を演ろう、
それも、すべてを語るのではなくて、
かぎられた時間のなかで
全貌をちゃんとわかるように伝えてみようと
思ったきっかけだったそうです。
六代目円生も「牡丹灯籠」は
かなりの部分を演っているらしいんですが、
それでもすべてではなくって、
そもそも作者の圓朝も
15日かけて話したというものすごい話、なんだそうです。
最近だと(調べたところによると)
歌丸さんが通しでやっていて
CD4枚組にもなっている。
でもCD4枚分の高座って一気には聴けないですもんね。
この15日かけて話したという
圓朝の高座を速記で起こしたものが、
当時、新聞連載されて、それが日本の言文一致体の祖、
二葉亭四迷に影響を与えて
『浮雲』をあの文体で書かせたといいます。
で、それを志の輔さんは読んでみた。
そしたら、最初のページから、めくってもめくっても
知っているキャラクターの名前は出てこないんだそうです。
あのお露新三朗の怪談の部分は、
壮大な物語のいちエピソードにすぎないと。
そもそもはじまりは、
ある武士が刀やの店先で
酔っ払いの武士にからまれ、
やむにやまれず斬る、という場面。
さあこのエピソードがどうつながっていくかというと、
その背景には因縁だらけの人間ドラマがあって
「登場人物をメモしておかないとわからなくなる」
まるでドストエフスキーみたいなことになっているらしい。
さて、その壮大な物語を
志の輔さんは、いち舞台、つまり2時間半くらいにおさめて
お客さんにたっぷり楽しませつつ
「牡丹灯籠の全貌」を伝える。
という実験が本多劇場での「志の輔らくごin下北沢」でした。
(昨年に続いて2度目だそうです、牡丹灯籠は。)
前半は浴衣に縁台というカジュアルな雰囲気で
「牡丹灯籠」の数十人の登場人物の相関関係を、
パネルをつかって説明。
その「怪談」部分の主人公であるお露さん、
‥‥の家である飯島家の、父、旗本・平左衛門と、
その愛弟子の孝助との間にある、
孝助の父の仇討ちをめぐる因縁。
それを乗り越える平左衛門の深い情愛。
お露の母なきあと飯島平左衛門の妾に上り詰めた
性悪の下女・お国と、その愛人の小悪党・源次郎の策略。
このものすごくよくできた話を
トークとも噺ともつかない立ち話スタイルで追う志の輔さん。
「ここはよーく覚えといてくださいよ〜」と
どうやら後半をちゃんと楽しませるための工夫を
随所でしていきます。
そしてまだまだ登場人物が残ってるけど‥‥?
という段階で、いったん休憩にはいります。
いったい後半はどうなるんだろう‥‥と思ったら、
幕が開くと高座に座布団、紋付きでの
噺家スタイルで噺がはじまりました。
ここから約90分一本勝負で、
落語としての「牡丹灯籠」がはじまります。
前半で、約半分の登場人物のことがわかっているので
ほうほうふむふむそうかそうかとすすみます。
ばらばらに入ってきていた知識が
ものがたりの大きな流れのなかで
ぴしりぴしりと、おさまるべきところにおさまり、
頭のなかで巨大なジグソーパズルができていきます。
前半では端役だった伴蔵・お峯が、
そしてお国と源次郎が、
まるで悪漢小説のように動き回る。
そして孝助の母親をめぐる因縁までもが明かされる。
因縁に因縁、数奇な運命が重なって、
どんどんつながっていくと、
最初に知ったストーリーと、
それと別に流れていた別のストーリーが、
ついに、ひとつになる!
ぞわわわわわわーっ!
これ、何の興奮に近いかというと
「24」を初めて観たときの息つくまもない感じ、
「こわっ! ていうか、‥‥よくできてる!」
という感心にすごく近かったです。
「24」って、アメリカのいまのテレビ産業という土台、
チームワークがあってはじめてできたものだと思ったけど、
‥‥圓朝はこの物語を23,4歳のときに
ひとりでつくっちゃってたわけですよね。
怪談よりも圓朝がこわい!!!
90分の噺の終わりは、
圓朝バージョンのエンディングに加え、
音楽と照明と語りをミックスした、
「牡丹灯籠・志の輔版エンディング」が入ります。
圓朝バージョンになかった大団円。
これも見事‥‥!!!
「この部分が、志の輔の『牡丹灯籠』なのだと思います」
ということでしたが、
なんのなんの、圓朝の本には演出は載ってないわけで、
録音物も残っていないので
どのキャラクターをどう喋るかというお手本はないわけです。
たとえば山本志丈という医者が
わりと大事なトリックスター的役割で出てくるんですが
志の輔さんはこれをものすごく「幇間」ぽく演じていて
これはオリジナルだと思うなあ。
そもそも2時間半でどうやったら飽きさせず
尻も痛くないうちに牡丹灯籠の全貌を、
圓朝という人のすごさを伝えるかということを、
考えたのは志の輔さんがはじめてなわけだし。
ああ、すごかった。
劇場からは毎年夏の恒例にしたいと言われているとかで、
そうなったらぜひ来年も観たいです。
そんなことも知らなかったのかと笑われそうだけど、
圓朝ってすごいんだなあ。
落語って、語りの芸であるだけでなく
「ものがたりをつくる」という作家の芸でもあるんですね。
そういえば江戸生まれではない昇太さんが
「古典では、江戸っ子の噺家にかなうわけがない」と
いまのスタイルを築いているんだった。
江戸っ子(東京生まれで、そういう家に育った)噺家の、
一気に江戸までタイムスリップさせちゃうような話芸は
もうほんとにすばらしいと思うんだけれども、
あれ、江戸っ子じゃない噺家がいくらマネしてもだめなんでしょうね。
「江戸弁を達者にあやつる話芸」になっちゃうもの。
志の輔さんにしても、積極的に新作をつくってて、
こんどそれが映画化されるんだそうです。
すごいなー。
ちなみに志の輔さんは若い頃、
下北沢のロングランシアター(いまはオフオフシアター)が、
ニール・サイモンのロングランをやっていたとき、
終演後の22時からの1時間を、毎週水曜日、借りて、
いろんなことをやる実験の場をもっていたそうです。
唄ったり話したり、もちろん落語もやって、
一年間「じぶんはなにができるだろう」と
いっしょうけんめい考えたんだって。
お客さんがゼロの日もあったんだって。
そういうことをした街・下北沢だから、
今回の、この挑戦がしたくなったのだとも話していました。
いやはや何度も言いますが、参りましたです。