●知らなかった!
静岡市が政令指定都市になったのを
ぜんぜん知りませんでした!
これによりいままで「静岡県静岡市七間町」だった実家が
「静岡県静岡市葵区七間町」になったそうだ。
あー知らなかった知らなかった!
●おほほほほ。
さあ感じ悪いこと書くぞ。
5月4日、休日だけど、どこにも行かないんで、
こんな贅沢もいいでしょうということで
フォーシーズンズホテル椿山荘での朝食会に参加して
ちょいとオシャレして出かけた。
あー感じわる! おほほほほ、の、ほ。
いいじゃないですかいいじゃないですか。
僕が食べたのは左からミューズリ、ワッフル、
エッグベネディクトでした。
たいっへん、うまかったです。
でも『不思議な国のアリス』のmad tea party(きちがいお茶会)
というのがあるけど、そんな趣すら漂ってしまったのは、
そういうメンバーだったってことでしょうかね。
こんなオトナになる予定はなかったのだが。
●ナイン。(旅情篇)
「ほぼ日」の似顔絵、そんなに似てるのか。
「ナイン」の主人公の妻役の高橋桂さんに
「シェフさん?! そのまま! ほんとにそのまま!
嬉しい!」と絶叫していただき、
ニューオータニのダイニングで隣の席にいたおばちゃんに
「ほぼ日のかたでしょ? 似顔絵でわかったわ」
と言われました。
ちょっと人気者になった気分が味わえました。てへへー。
ところでゲネプロで隣にいた大阪のおばちゃん。
2人組。1幕目は1Fで見ていたのが、
合流したもうひとりのおばちゃんと連れ立って
2F席にやってきて。
「2階から見るの、ええなあ」
「そやろ。チケット買いなおさなあかんで」
「どや、別所」
「あれな、アントニオバンデラスのビデオ見すぎとちゃうか」
「見すぎか」
「そや。それにな、バンデラスは自分のなかに
9歳の少年がおったけど、
別所には、まだ、おらんな」
ひゃー、きびちい。ていうか、詳しすぎ!
そうして2幕がはじまって、終演後。
「天才やな。デヴィッド・ルヴォーは天才や!」
どうやら満足したようです。
おそるべし、大阪のおばちゃん。
ま、それはともかく大阪。
ホテルと劇場の往復だけ、のはずが、
せっかく来たんだからと時間を縫って、
「明治軒」でポークチャップ、コロッケ、串揚げ、
それから「たこ焼き道場」で
ネギをのせたポン酢のたこ焼きと
スタンダードなソース味のたこ焼き。
トータルワークアウトも見学したし
水上バスで大阪観光ツアーに出たし
ついでに京都まで行って「曽我蕭白」見てきました。
プールでも泳いだし。
忙しかったなあ。
ところで最後の画像は京都国立博物館前。
記念写真のつもりが出征軍人フォトに。
●ナイン。(感動篇)
個人でできること、個人で表現できること、
というものに、限りない愛と尊敬を。
とんでもない才能と、気が遠くなるほどの努力、
そんなひとりひとりが集まって、
そこに「場」の魔力が加わった奇跡の瞬間に、
鳴りやまない拍手を。
このところ、それを、演劇というメディアで味わっている。
ずどーんと打ち震える機会に恵まれている。
「ナイン」もそうでした。
個人を集めるとカンパニー(って呼ぶんですね、演劇用語で!)ができる。
精密なからくり時計の人形ひとつひとつが
とほうもない時間と努力でつくられているみたいに、
今回集められたのは「完璧に歌うことができて」
「完璧に踊ることができ」「完璧に他人の人生を生きられる」才能だ。
そして彼らが天才からくり師・デヴィッド・ルヴォーという
演出家と出会ったことで、ものすごいことになってしまった。
人生に開くほんの一瞬の花のような時間を
ぼくらは味わうことができる。
そんなミュージカル。
(ちなみにデヴィッドはブロードウェイで
「ナイン」をアントニオ・バンデラス主演で演出、
トニー賞候補(8部門!)になっている。
今回、それを日本の役者でつくったんだけど、
ブロードウェイ版(のCD、だけど)と比べても
遜色がないどころか、さらに、いい。
それっておそろしいことだと思う。
だってアメリカ人がイタリア人を演じるのに比べたら
日本人がイタリア人を演じることのほうが
はるかにハンデがあるはずだもの。
たとえていうならそれって、
勘三郎さんがブロードウエイで
日本人ではない役者たちで歌舞伎を演出する、
ということじゃないかと思うのだ。
でもそれをデヴィッドは本気でやっちゃったのだ。
やって、成功させちゃったのだ。)
出演者たちは言う。
「開演時間が待ち遠しい」と。
「もっと歌っていたい、もっと踊っていたい、
もっと演じていたい、
もっと、『ナイン』の世界に、いたい」
‥‥とんでもないことだよ、これは。
舞台は1960年代のイタリア。
まさしくフェリーニの時代。
官能の時代。エイズ以前の享楽の時代。
日本で言えば元禄みたいなもんだろうか。
そんな時代のひとりの男と16人の女の話。
なんだってぼくらはどうしてこう
イタリア男から学ばされちゃうんだろう、
イタリア女から諭されちゃうんだろう、
人生は絶望的でろくでもなく、
それでも愛すべきものであることを。
時に夢見ごこちに、時にひどく現実的に、
死は常にそこにあり、
愛と性を見張っているということを。