この気持ちがまだうまく消化できない。
泣いた。
仔牛のグリエを食って泣いたのは初めてだ。
なんだか知らないが涙が出て目をごしごし拭きながら食べた。
顔に脂がにじんだのではありません。涙です。
ただ旨くて、泣いたのです。
ほんとうにこんなことは初めてです。
腹も気持ちもいっぱいで、ちっとも消化できない。
心と体がいっぺんに満腹になり、
くたくたになり、まるでその、なんだ、
「官能のあと」みたいじゃないか。
というとものすごく誤解されそうな書き方だけど
そんなことはありません奥さん。
ほんとうに「そんなのに近い気分」なだけです、
そんな放心状態が、いまのわたくし。
とんでもないものを食った。
あのさ、なんか、とんでもないことをしちまったのかね?
われわれ。このあといったいどうすりゃいいんだ?
セブンイレブンのおでんに戻れるのだろうか?
そこはかねてから楽しみにしていた麻布十番のイタリアン。
快気祝いというのはただの名目で、ほんとはともだちと、
ただうまいものが食べたかった。
それぞれふたり忙しく汗かいて働いていたので
ぜんぜんゆっくり話をする時間がなかったし
君は僕を忘れるからそんなときは(by民生)‥‥めしだ。
こんなふうにいっしょにめしを食うのはすごく久しぶりだなあ。
だってこないだ食べたのは病院の個室で唐揚げだったもんな。
ちょうどボーナスも出たことだし、ええい快気祝いだ、
おごりましょうおごりましょう。
年の瀬だし、思い切って、
あの店で食いたいだけ食ってみよう! と思ったのでした。
レストランが空いてる月曜日の8時半、
向こうも「大食い、受けて立ちましょう」
と気合いの入る時間であろう。待ったなし。
さんざんメニューを矯めつ眇めつ、ようやく決まる。
よく漬かったオリーブとピクルスをつまみながら待つ。
前菜にまず生牡蛎。3ピースずつ。
この店においては先輩であるとある女子に
「あの店の牡蛎は必須です」と言われていたので素直に食べる。
牡蛎ったってなあ、鮮度と産地だろう、と思ったら、
「それ以上」があったのですね‥‥厚岸の牡蛎だけど、
口に運んだとたん「うわあ」と小さく声が出る。ぺろり。
ぺろり。ぺろり。
くたくたに炒めた玉ねぎと、
ほんのすこし香るにんにく、そして味のついたビネガー。
殻に残った液体を飲んでみたら、
うわあ、冷たいスープのようだ。
順番は逆ですが、と、アミューズ。
マテ貝のソテーの冷製。肝のぶぶんがうまい。
アスパラガスのオーブン焼き、チーズがけ、ポーチドエッグのせ。
クリスマスですから、と、黒トリュフをたっぷりかけてくれる。
ぎりぎりの火加減のアスパラ。いい香り。うめえ。
うずらの唐揚げをはんぶんこ。
野禽だけど、やわらかい。あぶらっこくない。
手でつまんで骨までしゃぶる。うひひひひ。
次が最初のXTC。バイ貝のガーリックソテー。ハーブたっぷり。
なぜかサービス係ではなく、シェフの鈴木さんが直接持ってくる。
なぜだ?
と思ったら、食べてすぐ解った。
ものすごい自信作だったのでした。
ねっとり。たっぷり。あのう、‥‥なんというか、
「あのさ、これって、なんだか、いやらしい味だよね」
と、これは褒め言葉です。ほんとにそう思った。
セクシーな味。セクシュアルな味。
ぼくだけが思ったわけじゃない‥‥はず。
まあ、つまりは「ただただうまい」のだけれど、これが表現できない。
「いやらしい」のほかに言葉が思いつかないような味。官能。
こんなところでおれたちはいったい何をしているのか、と
なんだか照れるくらいうまいのだ。
わき腹を小さく刺されたかのような悲鳴のような声が出る。
うめきながら食べる。
これが終わったところで、旅は半分まで来たとわかり、
とても淋しい気持ちになる。
もう半分すぎちゃったよ。残り僅かだよ、帰国日はいつだ、
というようなせつない気分になる。なんなんだ。
ピクルスとオリーブおかわり。
パンもうまい。ソースをすくって食べる。
トマトのカッペリーニ。冷製で。
苦手な人はいやがるだろうくらいの酸味だけど、
バイ貝のあとにはさわやか。我に返る。
箸やすめ的にいただく。うまい。
毛ガニのタリアテッレ。濃厚な香り。
ふたたび官能度が上がる。
もういいようにいたぶられている気になってくる。
じゃがいものニョッキ、白トリュフがけ。
シェフの鈴木さんが再び登場。ということはまた超自信作だな。
白トリュフをたっぷりかけてくれる。
あああ。この香り。たまらん。
しばらく皿を凝視し、うごめくトリュフを見つめる。
がまんするこたぁないんだが、
なぜだか自分にほんの僅かの「おあずけ」をしてみる。
たまらん!
スプーンですくって口に運ぶ。
‥‥またもや、‥‥官能じゃないですかこれでは!!
「やっぱりこれは、なんだかいけないことをしているような気がする」
といううまさ。まいっちゃうなあ。
続くはメインディッシュ。仔牛のグリエ、
フォンドボーとガーリックのソース。
いままでの感動を上回るのだろうか?
上回るとしたらいったいどうなるんだろう?
出てきたのはたいへん品よく盛りつけられた一皿。
ふうむ、なんだかふつう。
しかし見た目はほんとうに上品なのだが、
ひとくち、切って、口に入れたら暴れ出した。
暴力的なうまさ。
個性というにはじゃじゃ馬すぎる強さ。
手に負えない。勝てない。なすすべがない。
あまりにうまくて、ここで泣く。
うまいという感情が御し切れない。
「うわ‥‥」と言ったきり涙が出る。ばかだ。あほだ。
「これじゃあキチガイみたいだよなあ」
と言いながらタオルで顔を拭く。うえーん。
断じて脂ではありません、涙ですってば。
うますぎる。
しかし旅はもう終わりかけている。
こんなにすばらしい時間がもう終わるのか。
食べ終わったらもうデザートなのか。
デザートが終わったらお会計だ。おわりだ。ジ・エンドだ。
しかし仔牛を食べ終わったところでサービス係に声をかけられる。
「足りましたか?」
「いいえ! 足りません!」即答。
というわけで、メニューをもらい、
白子のソテー、リーキのせと、
仔牛のカツレツを追加する。
つまりはメイン2品を追加し、やりなおそうということだ。
おれたちの旅はまだまだ終わらないぜ相棒。
だいじょうぶだ。なんとかなる。
正直なところ、仔牛のソテーの満足度たるや、
ほんとうに、むにゃむにゃむにゃ、のあとの満足に近かったので、
「まいっちゃったよね」と言いながら、深く溜息をつき、
かなりぐったりはしていた。もう倒れ込んでここで眠りたい。
‥‥んだけど、食欲のたがが外れている。
「行くか」「おう」と、もうなにがなんだか。引き返せない。
食欲における絶倫。
白子が来る。ああ、なんて濃厚なんだ。
「仔牛のグリエを食べてなかったらここで泣いたね」
という味。ねっとり。
カツレツ。ここのは厚みがあってコロッケのよう。
切ると、さくさくっと切れるのに、
肉汁がじゅわっと出てくる。切り口がすべてピンク。
カツレツでこんな火加減は見たことない。
でもやけどはしないぎりぎりの熱さになっているのがすごい。
「仔牛のグリエも白子も食べてなかったら、ここで泣いたね」
という味。
つまりはここのメインディッシュなら
おれたちはいつでも泣ける。泣かせてくれ、鈴木さんよ。
‥‥さすがに満腹。しかしデザートがある。
召し上がりますか? もちろん食べます。
栗のムースとティラミスをはんぶんこして
凍ったプリンをひとつずつ。
コーヒー。ぺろり。
ああ、ついに終わってしまった‥‥
気づいたら、2時間半以上経ってました。
ああ、ほんとに終わっちゃった。
楽しかった。
久しぶりの「やり遂げ感」を味わいました。
「たくさん食べていただいてありがとうございます」
と言われて店をあとにする。記録的に食べたということでした。
そりゃそうだろうなあ‥‥
こんど行けるのはいつかなあ。
なんか、今日の体験でここがすごく特別な店になっちゃったので
やっぱりとくべつな気持ちで行きたい気がする。
また‥‥食材が楽しみな春、かなあ?
同行者よ、またつきあってください。よろしくです。
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‥‥と、つらつら夜中に書いてこれから風呂。
「風呂にはいると、おいしい匂いが消えちゃう!」
と一瞬本気で思った自分が阿呆で愛おしい。
とっとと風呂入って寝ます。