ぼくは料理「専門」の編集者ではない。
その分野にかんしては「好き」なだけで
編集知識は多くなかったものだから、
飯島奈美さんの『LIFE』をつくったときは、
じぶんが使うのに(つまり料理を再現するのに)
どうしたらいいだろうかということを考えた。
というか、料理本かくあるべし、
というようなことを知らなかったものだから、
いわゆる料理本の「常識」からは、
かなり逸脱した本になって、ちょっと驚かれた。
といっても、すごく細かく説明した、というだけなんだけれど、
そのために「これどうなってるんですか」
「手を止めてもういちど見せてください」
「小さじ1ですか、1強ですか、1弱ですか」
「そのひっくりかえすタイミングはどうしてですか。
色ですか匂いですか音ですか時間ですか」
みたいなことを延々やっていった。
ちなみに、プロの「料理研究家」が取材対象だと、
すでにレシピがデータ化されていたりして、
プリントアウトなりメールなりでさっと届く。
取材は「撮影」がメインで、話を聞く時間は
あんがい多くなかったりするのだから、
1冊を1年以上かけてつくった『LIFE』は
いろんな意味でぜいたくな本になった。
ちなみにぼくが飯島さんに取材するすがたを見ていた
とある小説家のかたが
「武井さんが怖かった」と言ってくださった、
と聞き、すごくうれしかったのをおぼえている。
それくらい、しつこかったんだろうと思う。
食いしん坊なだけ? そうかも。
ともあれ、冥利に尽きます。
でもその後「そういう感じ」の本は増えた。
なーんだ、みんなこのくらい
くわしく知りたかったんじゃーん!
と思っているんだけれど、
欧米の料理本はさらに先を行っていて、
ことし買ったフェランディの料理本なんて、
でっかくて分厚いうえに、
そこまで解説しちゃっていいわけ?
というくらい、写真も説明も親切。
あまねく世界中のどんな民にも
伝統的フランス料理のただしい技法を伝えるのだ!
という意気込みがある。
まあぼくはフランス語がよくわかっていないから、
言葉がどこまで細かいのか、説明できないんだけど、
どうもそうとうな細かさのようである。
言葉がよくわからなくても作れそうなくらい、といってもいい。
しかも大著のわりに(現地だと)すごく安い。
くやしいなあ、いろいろ。
ということで海外に行くとついつい料理本を買ってしまうし、
日本でも、プロ系の料理本をながめるのはとても好きだ。
1冊の本をつくるのに、
プロフェッショナルの料理人が技術と経験を
おしみなくつぎ込んでいるわけで、
そんな知恵の書、おもしろいに決まっている。
つくるため、というより、その想像力や創造力にひれ伏す、
つまり小説を読むように料理本って読めるんですよ。
三文小説が多いように、三文料理本も多いわけだけど。
さて、尊敬するフレンチのシェフ(同世代)の
和知徹さんが出した本
『銀座マルディ グラの
ストウブ・レシピ』が、すごかった。
なにがすごいって、料理の工程における
「見極め」の部分を、和知さん、徹底的に説明しちゃうんです。
たとえば「音」そして「匂い」。
料理が好きな人で、音や匂いを気にしない人はいないと思うんだけれど、
そのことが書かれた料理本って、じつはあまり、ない。
たいていその「見極め」は
「火加減×時間」などの数字に置き換えられ、
「何度で何分経ったらひっくりかえしましょう」になる。
でも和知さんはそう説明しない。
なぜなら、ふだん、そういうふうに料理をしていないから。
まあ、オーブンなんかで「設定をする」工程があるときは別だろうけど、
「経験による判断」が先で、数字はあとからついてくるんだろう。
たとえば、こう。
鍋が温まり、ジワジワと音がしてオイルの香りが立ってきたら、蓋をして中火にする。しばらくして、パチパチとはぜる音が聞こえてきたら弱火に。これは、長ねぎから出た水分が蒸気となり、蓋裏のピコ(突起)を通してまた水分となって落ち、オイルに当たってはぜる音。ここで蓋を開けずに、ぐっと我慢。
(「長ねぎのブレゼ」工程3より)
これを普通の料理本にするとどうなるかというとこうなる。
鍋が温まってきたら蓋をします。5分したら弱火にします。
これだけになっちゃうのだ。
説明の「しつこさ」の違いがおわかりいただけるだろうか。
それからこの本には、
いままでの「定番的手法」をくつがえす部分がある。
肉は常温で焼きましょう、と言われるあの説明を、
やめちゃうのだ。
肉は冷蔵庫から出したてのものを使う。
なぜならば。
季節により室温も違うので、室温に戻すより、むしろこのくらいのほうが肉の温度が一定な分、焼き加減にムラが出にくくなります。
(「肉を焼く前に覚えておきたい和知メソッド」より)
これはぼくも積年の疑問だった。
「室温」や「常温」が
何をさすのかわからないということである。
自分はどうしているかというと、
まあ、冷たくなければいいか、というのが案1。
これだと、季節によってどうすりゃいいのかわからない。
そして「体温にする」というのが案2。
牛の体温(まあ、人の体温だと思って40度くらい)に、
湯煎でもしてあたためる、という手。
こうなると、もう、料理オタクの世界なので、
人にすすめたりしにくい、ゆえに本には書きづらい。
そんなふうに説明する料理人もあまりいない。
さらに、肉の加熱温度についての言及にこんな部分があった。
ここで再度、金串を刺して確認。下唇に当て、温かさを感じれば、中心まで加熱できている。金串を刺したところからは、透明の肉汁が溢れてくる。
(「牛赤身のステーキ」工程5より)
下唇に金串! 山田詠美の小説のタイトルみたいですけど、
つまりはなんという官能的な表現。
「目」とともに「触」も使って判断するというところまで
踏み込んじゃっているのだ。
惜しむらくは、その「下唇に金串」状態の和知さんの写真は
なぜか次のページの「ポークソテー」に入っていて、
「ポークソテー」には、その金串の記述はないんだよな。
ちっちゃなミスでしょうか。うるさくてごめん。
この本、フランスの鍋「ストウブ」を使う前提の料理本だからと、
敬遠していたら損をします。
ぼくも長年のストウブ党(ル・クルーゼ党じゃない)、
というかストウブ教‥‥ってほどでもないか、
じゃあね、ストウブ騎士団! くらいの気分ではあるので、
いっそ買っちゃってくださいと思いますけど。
それにしても、文・編集の鹿野さんというかた、すごいなあ。
どうやったらここまで引き出せるんだろう。
ほんとうにひとつひとつ、しがみつくようにして聞き出している。
ふつう、ここまでは料理人って説明しないというか、
言語化できないんじゃないかな、というようなことが、
ちゃんと説明されているんだもの。
まいりました。
でもここまで説明しちゃったら、
和知さんのところに行く人が減っちゃう!
というのはやっぱり杞憂。
というのは、プロフェッショナルで、
しかも店を持ってやっている料理人っていうのは、
その「五感」に加えて「第六感」というやつを使うから。
こればっかりは本にはなりません。
横についている弟子なら、
その分け前が与えられることはあるだろうけど、
テレパシーと同じで、送信と受信がひとつにならないと
伝わるものも伝わらないし
伝わったところで「そのまま」じゃ意味がないので、
さらなる創造的な第六感が必要とされるわけ。
絶対に「その味」は再現できない、というのは、
だから、料理本をつくっていての
ジレンマのひとつになるわけだし、
和知さんのこういう本には、
ここまで近づけちゃうんだ! と、
焼きもちを焼いちゃうわけなのでした。