よく晴れたなあ。
「直己はね、おてんき男だったからねえ」
とお父上はおっしゃったが、
おとうさん「晴れ男」と言いたいんですよね。
おてんきおとこ、じゃ、ちょっとめでたいですよ、
と、棺に花を手向けながら、ぽろぽろと泣き笑い。
よく晴れた。
通夜、出棺、火葬、骨拾い、本葬、
(静岡はお骨になってから、葬儀を行なうのです)
そしてまとめて同じ日に初七日法要、精進落とし。
葬儀が終わった日の夜は、
小中高ずっといっしょの友人2人といっしょに
てきとうなビストロ居酒屋(としかいいようがない)で
ぐでんぐでんになるまで献杯をささげた。
つまり故人を肴にした飲み会、ってことです。
途中で「飲んでますぜ」と写真を送ったら
「やだ、どこにいるの?」と
犬の散歩をしていた奥さんがかけつけてくれて、
(‥‥うれしかったなあ)
幾度目かの献杯。何度も献杯。
ともだちのことをたくさん話した。
ずっと笑って4人で話した。
奥さんしか知らないここ十数年のこともたくさん聞いた。
へえ、そうなんだ、イスラ・ムヘーレスで出会ったんだ、とか。
話しても話しても、
いっくら探しても褒めるところしかないという、
とんでもないやつだったので、
こんどみんなで会うときまでには
「そういえばさあ、あいつってさ‥‥」と
カゲグチのひとつも探しておきたいくらいだ。
そうして話題にしているとまるで
「たまたまちょっといないだけ」
のような気がする。
いなくなっちゃったんだよなあ。
東京にもどってきて、日常がはじまる。
食事の洗い物を終えたり、風呂につかったり
ごろんとベッドに横になったり、
そうした気を抜くふとした瞬間に、
あの、花に囲まれて棺によこたわっていた姿を思い出す。
さくさくと軽い骨になってしまったことを思い出す。
きみは、もう、いないんだよな?
と思って、動きが止まる。
あのさ、きみ、つい先週まではさ、
ちゃんと息をしてたよねえ?
などと、せんないことを考える。
肉体が滅びた、ということが
なぜだかうまくすんなりと理解できない。
それを死というのだし、
「わたしは受け入れません!」
なんてことではないんだけれど、
「‥‥あいつ、いったいどこへ行ったんだ?」
という気持ちなのだ。
いったい「もう、いない」という、
それがどういうことなのかが
さっぱりわからないのだ。
スペイン語に Hasta Mañana という挨拶があって
「また明日ね」の意味なんだけれど、
そのうしろには si Dios quiere と続くのだそうだ。
「またね! ‥‥って、明日会えるかどうかは、神様次第だけど」
というようなことらしい。
棺を閉じる前、さよならのかわりに
「じゃあね、またね」と言った。
中学のとき、週に5日もあった塾でずっと一緒で
帰り道も同じだったので、
ほんとに毎日「じゃあね」を言っていた。
それはまったく疑いもせず「また明日ね」
という意味そのもので、
明日会えないかもしれないなんて考えたこともなかった。