いまさら言うのもなんだけど
サービス業においてぼくは
「誰が」というのをけっこう大事にしているみたいだ。
つまり、ものは知っている人から買いたいし、
知っている人がつくったもごはんがいい。
とうぜんのことながらそれは「お互い」でありたい。
こっちは向こうのことをわかってるし
向こうもこっちのことをわかってるという関係において
買い物をしたりごはんを食べたりしたい。
もちろんそうじゃなきゃ嫌だということじゃなくて、
ネット通販(とても便利である)も使うし、
サブウェイのサンドイッチも食べる(安いし悪くない)。
量販店では知らない店員からものを買うし
初めてのレストランにも行かないわけじゃない。
でも、サービスをうけて対価を払い、
温泉に浸かって「ふぅ」みたいに安堵するのは
やっぱりこっち(知ってる人)のほうなんだよなあと思う。
「次」につながる期待や
人間関係を積み重ねていく楽しみがある。
初めてのレストラン、という例を出したけど、
雑誌やネットで情報収集して「いざ!」と出かけるということは
ほんとうににすくなくなってしまった。
新規開拓と言っても、ほとんどが信頼している誰かの紹介。
それがいい感じの店だったら、
「これからもっと知り合いになろう」と考える。
料理人やオーナーと話して情報交換をして
さらにおいしいものを食べてみたいからだ。
そうすると必然的に外食するときは
二度目以降の店になる。
それはそれでどうなのかなと思うけど、
この短い人生、一生かけても
すべての料理を食べることなんてできないし
だから「縁あって」というなかで
ちょっと広がればそれでいい。
こういう考え方は現代的じゃないんだろうか。
けれどもこういう「人間的なつきあい」的なものを
バーチャルの世界は欲しいみたいで、
たとえばAmazonとかのサービスって
「やあやあ、ヨシアキさん、ウエルカムバック」
「こんなおすすめがありますけどどうですか」
という方向にどんどん来てる感じがする。
それも古典的なSFじゃないが、人とロボットの間には
ずいぶんな距離があるみたいでどうもよそよそしい。
「アナタノコトハスベテワカッテイマス」みたいな。
ロボット語をカタカナで表記するのって20世紀的かな?
写真SNS系のflickerはログインするたびに、
各国語で「こんにちは」を言うが、
これはそのそっけなさが悪くない。
過剰じゃないところが、あやしくなくていい。
ただの仕組みでそうなってるってわかるから。
その点facebookはどうも過剰な気がする。
ただの仕組みなんだけど、
なんだか頭が良すぎる勉強できる子な感じがして。
そういえばこないだから、
me.comのアドレスからfacebookが勝手にメールを
(それも、facebookに参加しませんかとぼくが言ってる内容で)
何度も出す、ということがあって、
たぶんうっかり「友達を検索」というコマンドで
まちがったのだとは思うんだけれど、
自分がログインしていない(会議中)のときに
それが行なわれてひじょうに困った。
「よかれと思って」のシステムに、まったくなじめない。
腹を立ててやめるには便利なところもあるのが悔しい。
話題がそれました。
じゃあ高級リゾートホテルみたいなところで
宿泊記録やアクティビティの記録が参照される仕組みになってて、
久しぶりに行ってもなじみ客みたいに扱われたらどうだろう?
しかもスタッフが総入れ替えされてたりして、
ぼくがまったく知らない人から
さもぼくを知っていますという表現をされたとして、
気分はどんなもんだろう。
‥‥案外悪くない気もする。
ホテルというのがそもそも「プライバシー」を
尊重するしくみのなかで成立しているから、
その前提条件さえやぶらなければ
ある程度の親密さは心地よいということなのかもしれない。
「シャツは糊をきかせずに、ハンガー仕上げでございますね」
というような対応をされれば
それはそれで手間が省けてうれしい。
って、経験が少なすぎてよくわからないけれど。
「ごぶさたしております。
もう10年になりますね。
きっと覚えていらっしゃらないでしょうけれど、
以前いらしたときには、
レストランのサービス係をしておりました。
朝食でいつもたっぷりのフルーツを
おめしあがりでしたよね。
あらためて、おかえりなさいませ。
申し遅れました、いま支配人をしております」
なんて言われてみたい気もする。
ただの妄想ですけど。
こういうシミュレーション遊びを延長していくと
メイドカフェ的なことになるのかも。
先日、床屋の帰り、ぶらぶら歩いて、とあるお店に行ったら、
ずいぶん歓迎してもらった。
あたらしくできた6F建ての大きな店なんだけれど、
都内にある各店から異動してきたスタッフで構成されてて、
ぼくはその店が好きで、渋谷新宿青山銀座と
ちょこちょこ顔を出していたので、
店長さんはじめ、知っている顔が多い。
ぶらぶら見てると久しぶりに会った店員さんがそこにいて
「あ、こんにちは!」と、うれしそうに言ってくれる。
それがぼくもうれしかった。
最初からちょっと買いたい気持ちで行ったので
なじみの店員さんと話しながら館内をめぐり
シャツを1枚と七分袖のカットソーを1枚買った。
すっごく楽しかった。
冷静な人から言わせれば
「それはいままで十何年も、
さんざんお金使ってるから、
お得意様ってことでしょう?
またうまいこと買わされたんですよ」
ということになるんだろうけれど、
ぼくはそうは思わないんだよなあ。
そんなふうに疑う関係では、ありたくない。
そもそもぼくはお得意様ではなくて、
「妙なファン」というくらいの位置づけじゃないかと思う。
ぽんぽんどんどん買うタイプの客じゃないし、
(その店はものすごい買い方をするお金持ちが大勢いるのだ!)
というよりどっちのシャツにしようか
1時間悩んで動かなかったりする。
あまりのことにたまたま居合わせたデザイナーご本人に
「迷ってるんですか。背中をおしましょうか?」
と声をかけられたくらいだ。ありがとうございます。
だいいちお店に行っても
買わずに喋って帰ることのほうが多いくらいで、
ああ迷惑なひとだなあ。
しかし「困ったな」という顔はされていないからいいのだ。
だって向こうも楽しいに決まってるから。
ああ図々しいひとだなあ。
でも。
なんだこれ、この感じ、なにかに似てる‥‥、
と思ったらそれは商店街だった。
ぼくは生まれ育ちが静岡の七間町というところで、
買い物も食べ物も専門の商店で買うのがあたりまえだった。
そして商店は「誰」の経営で「何」を売っているのかが
こまかくわかれている。
お味噌はヤマトヤさんで買うとか
お魚は銀さんで買うとか、
そういうわりと厳格なルールが(家によって)決まってて、
「ツケで買う」ことができるくらいの関係性だった。
でもまあじっさいはツケで買うような時代ではなかったけれど。
そのせいだろうか、思春期以降、レコードでも服でも
店員の誰かと仲よくなって
その人に会いにお店に遊びに行っていた。
むこうも別に嫌な顔はしなかった。
そしてそのまんま東京に出てきちゃったので、
そのまんまのつきあいかたを続けているのだ。
伊勢丹に行くと鶏肉屋のおばちゃんとか
肉売り場のおねえさんとか、
ちくわやの大将とかとちょこちょこ話したりして、
行けばかならず挨拶をする。
ちなみに「伊勢丹で食材買うなんて」と
なぜか批判めいた感じで言う人もいるんだけど、
そういうことではない。
すこしくらい高くてもいい食材が欲しいという、
食いしん坊ならではの一心である。
だからなんでもかんでも伊勢丹というわけじゃなく、
伊勢丹でしか買えない食料品もあるということだ。
魚谷さんのちくわはとてもおいしい。しゃけの切り落としも。
やっぱりぼくにとっては商店街なんだよなあ。
それはそうと、服を買ったらずいぶん気が晴れた。
曇ってたんだなあ、こころ。
買い物の効用ってすごい。