辻村深月さんの『ツナグ』、
お・も・し・ろ・か・っ・た・ーっ!!!
ジャンルは「ミステリー」っていうことになるのかなあ。
あるいは「ファンタジー」?
かるく「オカルト」も入っているだろうか。
そのあたり、よくわからないところなんだけど、
芥川賞か直木賞かと言われたら直木賞。
文章に癖がなくて、非常にわかりやすく論理的、
つまり「ものすごく巧い」のだと思う。
作者のメッセージだとか意図だとか、
そういうことをいっさい感じさせずに、
山道を進むトロッコのように物語がすすんでゆく。
連作短編の形をとっているので、緩急の緩はちゃんとあり、
ほっと息をつきつつも、緊張はつづいて、
「で、で(どうなるの)???」と思いながら
ラストまでぐいぐいとひっぱられてゆく。
みごと。
テーマは哲学的には「死者とはなにものなのか」
「生きてゆくということは、どういうことなのだろうか」。
古今東西扱われてきたテーマだけれど、
「この方法があったか!」と、その手法にも驚きます。
「一生にひとりだけ、死者に会えるとしたら、
あなたは誰に会いたいですか?」
生者も死者も、生きている人に会えるチャンスは一度きり。
依頼は生者から死者へ。
そのあいだを取り持つのが「ツナグ=使者」と呼ばれる、
物語に共通して登場する人物。
依頼人を主人公にしたいくつかの物語が続き、最後は、
長いエピローグ的に、「使者」本人の物語が重なる。
読了後の、「ああ読んだ!」というすっきりした気持ちとともに
せつない気持ちが心に残る。
あの子はこれからどうしていくだろう。
あの人はどうしただろう。
そんなふうに、登場人物たちが自分の中で生きていることに驚きました。
●
星野源さんのソロライブ。
すっと舞台に登場したとき、
チューニングする人かと思った。
そのくらい「ふつう」に入ってくる。
そしてマイクの前でふつうに喋り出す。
これ、案外ないぞ。
だいたい1曲目は「がつん」とはじまるもんだけど
星野さんは喋る。チューニングして喋って、
「じゃあ」みたいにして弾き語りをはじめる。
そしてベース・ドラム・キーボードが加わって
バンド編成になり、もちろんおしゃべりをはさみつつ
(お客さんとも喋ってた)、
たっぷり演奏したあと、最後の曲の前、
「このあとアンコールやりますからねー。
でね、やるとわかってるアンコールに
拍手して待っててもらうのが
もうしわけないので、サケロックだとすぐ出てくるんですけど
きょうはチューニングとかあるのでちょっとお待ちいただきます。
トイレ行ったり、物販見たりして、
ゆるゆる、お待ちください。
もちろん拍手してくださってもいいけれど」。
そしてふたたび登場、たっぷりの弾き語りとおしゃべり、
そして最後の1曲はバンド編成で。
てらいがないなあと思う。
やりたいことをまっすぐにやってて、
そのための努力は気持ちいいくらいたくさんしてて、
でも「どうだ!」みたいなことはなく、
遠慮がちかと思いきやまっすぐで、
その発表の場が、みんなに受け入れられてる。
「上が閊(つか)えてる」みたいな感覚はきっとなくて、
「俺ごときが」という気持ちはあるのかもしれないけど、
必要以上にへりくだったりすることはない。
こないだ陶芸の「村田森」さんの個展でも
同じことを思ったけど、
(村田さんは、李朝のいいものとかを
上手に取り入れるみたいな感じでやってて、
もちろんリスペクトあってのことだけど、
みょうな卑下をすることなく、
俺が見つけたんだぜみたいなこともなく、
古典だからといって無意味に尊敬しすぎることもなく、
使いやすいものをつくりたいだけ、でやってる気がする)
星野さんの歌にも、そんなことを思うなあ。
正直に言うとすごくうらやましい。
見習う!
お・も・し・ろ・か・っ・た・ーっ!!!
ジャンルは「ミステリー」っていうことになるのかなあ。
あるいは「ファンタジー」?
かるく「オカルト」も入っているだろうか。
そのあたり、よくわからないところなんだけど、
芥川賞か直木賞かと言われたら直木賞。
文章に癖がなくて、非常にわかりやすく論理的、
つまり「ものすごく巧い」のだと思う。
作者のメッセージだとか意図だとか、
そういうことをいっさい感じさせずに、
山道を進むトロッコのように物語がすすんでゆく。
連作短編の形をとっているので、緩急の緩はちゃんとあり、
ほっと息をつきつつも、緊張はつづいて、
「で、で(どうなるの)???」と思いながら
ラストまでぐいぐいとひっぱられてゆく。
みごと。
テーマは哲学的には「死者とはなにものなのか」
「生きてゆくということは、どういうことなのだろうか」。
古今東西扱われてきたテーマだけれど、
「この方法があったか!」と、その手法にも驚きます。
「一生にひとりだけ、死者に会えるとしたら、
あなたは誰に会いたいですか?」
生者も死者も、生きている人に会えるチャンスは一度きり。
依頼は生者から死者へ。
そのあいだを取り持つのが「ツナグ=使者」と呼ばれる、
物語に共通して登場する人物。
依頼人を主人公にしたいくつかの物語が続き、最後は、
長いエピローグ的に、「使者」本人の物語が重なる。
読了後の、「ああ読んだ!」というすっきりした気持ちとともに
せつない気持ちが心に残る。
あの子はこれからどうしていくだろう。
あの人はどうしただろう。
そんなふうに、登場人物たちが自分の中で生きていることに驚きました。
●
星野源さんのソロライブ。
すっと舞台に登場したとき、
チューニングする人かと思った。
そのくらい「ふつう」に入ってくる。
そしてマイクの前でふつうに喋り出す。
これ、案外ないぞ。
だいたい1曲目は「がつん」とはじまるもんだけど
星野さんは喋る。チューニングして喋って、
「じゃあ」みたいにして弾き語りをはじめる。
そしてベース・ドラム・キーボードが加わって
バンド編成になり、もちろんおしゃべりをはさみつつ
(お客さんとも喋ってた)、
たっぷり演奏したあと、最後の曲の前、
「このあとアンコールやりますからねー。
でね、やるとわかってるアンコールに
拍手して待っててもらうのが
もうしわけないので、サケロックだとすぐ出てくるんですけど
きょうはチューニングとかあるのでちょっとお待ちいただきます。
トイレ行ったり、物販見たりして、
ゆるゆる、お待ちください。
もちろん拍手してくださってもいいけれど」。
そしてふたたび登場、たっぷりの弾き語りとおしゃべり、
そして最後の1曲はバンド編成で。
てらいがないなあと思う。
やりたいことをまっすぐにやってて、
そのための努力は気持ちいいくらいたくさんしてて、
でも「どうだ!」みたいなことはなく、
遠慮がちかと思いきやまっすぐで、
その発表の場が、みんなに受け入れられてる。
「上が閊(つか)えてる」みたいな感覚はきっとなくて、
「俺ごときが」という気持ちはあるのかもしれないけど、
必要以上にへりくだったりすることはない。
こないだ陶芸の「村田森」さんの個展でも
同じことを思ったけど、
(村田さんは、李朝のいいものとかを
上手に取り入れるみたいな感じでやってて、
もちろんリスペクトあってのことだけど、
みょうな卑下をすることなく、
俺が見つけたんだぜみたいなこともなく、
古典だからといって無意味に尊敬しすぎることもなく、
使いやすいものをつくりたいだけ、でやってる気がする)
星野さんの歌にも、そんなことを思うなあ。
正直に言うとすごくうらやましい。
見習う!