タカシマヤの「アンジェリーナ」でモンブランを6つ買い
「遠〜〜〜〜いところに持っていくので、
たくさん保冷剤を入れてください」
とお願いしたら、到着する頃にはケーキに霜が降りてました。
習志野の大きな病院は日曜日でひっそりとしていて
こりゃひとりでいたら淋しいだろうなという感じ。
よう、どうだい。
事故でめくれた腕の皮膚はうっすらと再生。
包帯をまくって見せてもらう。おお。
「ヒナみたいでしょ」
うむ、たしかに、羽をむしったヒナの皮みたい。
こんがり焼いたらうまそうだ、
と思いつつ、持参した唐揚げ弁当を食べる。
さわらせてもらったら、ぷにぷにしてました。
ますますうまそうです。おい醤油どこだっけ?
と言いながら、竜田揚げも食べる。
考えてみると食事の時間にあわせて
「一緒に食べよう」と弁当を持参する見舞客というのも
どうかと思う。
つまりは、つるつるの新しい皮膚ができかけていたということです。
ケロイド状にならず、きれいに治りそうだということで
ほんとうによかった。
もうすぐ退院できるらしいから
見舞いもこれで最後かな?
「次はこのバイクにしようと思うんだ」
と雑誌を見せてもらう。
‥‥ううむ、どれでもいいけど、気をつけて乗るんだよ。
長そで着てね。
●
見舞いに行く前にコルソコモに寄ったら、
ジュンヤマンの馴染みの店員ホージョー君が
辞めることになったと言う。
ええっ。
おなじファッションの業界だけど、
ファッション専門の新聞をつくる会社に転職するのだそうだ。
記者になるのですね。
30歳を機に、しっかり考えてみての結論なのだと言う。
そういうことなら、前向きに、よかったじゃないかと送別。
しかし淋しい。
ぼくは、どうも、ただ買いに行くというよりも
その場所で楽しく話をすることも含めて
買い物を楽しんでいるんだと思う。
伊勢丹の肉売り場のおじさんや
たらこ売り場のおばさんだっておんなじだ。
目があって「いらっしゃい」と「覚えていましたよ」
というふうに挨拶してもらえることを、ほんとうに嬉しく思っている。
自分のことを覚えてもらうことって
ほんとうに幸せなことなのだ。
だから、‥‥なんか、やっぱり淋しい。
なんかね、ものごとは、変わり続けるから面白いし
ファッションなんてまさしくそうなわけなんだし
「いつも同じようにそこにある」なんてことや
「いつも同じようにそこにいる」なんてことは
ほんとうは「ない」んだとわかっちゃいるけどね。
「お会いできて、ほんとうによかったです」と
まじめに言ってくれて、とてもうれしかった。
●
ぼくはともだちにとって「かわらない存在」でいることが、
できるのかなあ?
かなしい思いをさせていないかなあ?
自分じしんだって、やっぱり変わっていくわけだし
その変化は、自分にとっては好ましいことのはずだけど、
そのことによって、切り捨ててしまったものは、ないかなあ?
古い友人のなかには、
とてもつらくかなしい変化をしてしまったやつもいて、
つまりは社会復帰できないどうしようもない状態にあるのもいて、
そいつのことをたまに思うとき、
自分はそういうふうになっちゃいかんなと反省する。
ぼくがそうなったらつらいと思ってくれる
友人も(ごくすこしでも)いるはずだというのは小さな自負だ。
そんなことを考えながら、
習志野から東京への電車の時間をすごした。
ぼくにいまできることは、
しっかり健康でいること(死なないこと)、
いつもにこにこしていること、
ちゃんといろんなことに努力すること、
犯罪をおかさないこと、
そのくらいのものかもしれないや。