舞台『炎立つ』を観ました。
デヴィッド・ルヴォーさん対談の
木内宏昌さんが脚本を書いています。
演出は栗山民也さんで、
出演に片岡愛之助さん、三宅健さん、
益岡徹さん、新妻聖子さん、花王おさむさん、
三田和代さんに平幹二朗さんと来れば、
シアターコクーンとはいえ
かなり商業的なものなんだろうなあ
(まあ、演劇は商業ですが)、と思ってた。
とても評判のいい木内さんの脚本が楽しみ!
ということと、
「ナイン」から知っている女優の
宮菜穂子さんが出ている、ということのほかは、
そんなに大きな期待をせずに行ったのですが、
(疲れてたので眠っちゃったらどうしよう? とか)
もう見事に裏切られました。
すさまじい舞台だったのです。
まだちょっとたましいがあの場所にいるかのよう。
物語のテーマは「後三年の役」、
だから舞台は陸奥の国と出羽の国。
東北です。
奥州藤原氏の祖である藤原清衡(愛之助)と、
異父兄弟である家衡(三宅健)の戦いが中心で、
古代神アラハバキ(平幹)のほかは、史実がベース。
後三年の役って言われても
ぼくは日本史の教科書以上のことを知らないし
(しかも、ほとんど忘れている)、
歴史に興味があるわけでもないのだけれど、
なぜ今「後三年の役」をテーマにするのか、
確固たる信念が、作り手にあった舞台でした。
震災後、しかも、今、やるべき舞台なのだと。
もうね、観てると、平安時代と「今」を、
ぐるんぐるん、行ったり来たりしてるみたいな気分になるんです。
この揺さぶられ方はすごい。
じゃあその「作り手」は誰なのか、誰の意思なのかというと、
一般的には栗山さんということになるのだろうけれど、
ここが舞台の、そして芸術のふしぎなところで、
「劇団」の力が出ていたのです。
脚本の木内さんも、
おそらく出演している役者たちも、
あつまったスタッフも、
みんな「依頼された仕事」のはず。
だから「劇団である」という意識はないはず。
けれども全員に力があって、うまく噛みあうと、
こういうことになるんだなあ。
志を同じくして立ち上げた劇団の姿になる。
カンパニー、という言い方を演劇界でするのが、
また面白いなあって思います。
そう、『炎立つ』は、まさしくカンパニーの作品でした。
観劇前に木内さんは「ことばの劇なので‥‥」と、
ちょっと控えめに(やや心配そうに)言っていて。
それは「ことばばっかりの劇」というのが
けっこうややこしく退屈だったりするから(ぼくは苦手)、
そう受け取られる心配をしていたのかなと思うけど、
『炎立つ』は、説明的なせりふでも、
ひとつひとつが「そこにあるべきことば」だったのが
ことばばっかりの劇とは、ぜんぜんちがうところだと思う。
その言葉は、語られるべくして語られ、客席に放たれる。
ひとことひとことが矢のようでもあり、
ときにやさしい雨のようでもあり、
つめたい雪のようでもあり、
あるいは煙と火のようでもありました。
じゃあ、ことばの劇かと思いきや、
音楽、歌、そして音の劇でもあり、
見立てを多用した身体表現の劇でもあって。
音楽や歌には、土着的‥‥っていうとカンタンすぎるけど、
「歌が生まれる」しかるべき理由がある歌というのかな。
それが流れてくる。
効果音も同じ。
(ちなみに金子飛鳥さんが、舞台の下手にいて、奏でている!)
そして身体表現でいうと、
主要人物は「1役者1役」なのだけれど、
4人の巫女が、ありとあらゆる役を
その姿のまま(朽ち果てた巫女というか、ゾンビというか)
で演じるのに驚いちゃった。
端役、が、ひとりもいない舞台なのだ!
合戦を演じるのに、「その他大勢」を使わず、
激しい殺陣もない(あるけれど、ダンスのよう)。
しかもセットは1つだけ。
抽象的な背景が2つ3つある程度で、
幕と影をすごくじょうずに使っている。
あとはほとんど光と音と言葉と身体表現。
衣装チェンジもほとんどない。
なのに、幾千もの屍が見える。
凍える大気と怒れる大地が見える。
悲しみそのものが、オーラみたいにそこを覆っている。
演劇ってすごい。
宮菜穂子さんに終演後の楽屋でお会いした。
うれしかったなあ。
舞台の彼女もすばらしかったし、
こうして会えたこともうれしかった。
ルヴォーさん演出の『ナイン』は、
とても特別な舞台だった。
つくっている途中から、終わるまで、
あれは魔法のような時間だった。
その感覚は、あのときのカンパニーのみんなが共有していて、
現場にかなり密着していたぼくは、
そのかけらをちょっとだけ持っている。
だから、こうしてすごく久しぶりに会っても、
よみがえってくるのだ。
木内さんとも同じ。
ぼくは演劇人じゃないけど、
(ワハハも含めて)こういう縁に恵まれたことを
とても不思議に思うし、光栄に思うのです。